別れようなんて言わないでくれ
「私たち、別れた方がいいと思うの」
俺は彼女の口から出たその言葉の意味がわからなくて、立ち尽くす。彼女は涙を落として去っていく。木枯らしが二人の間を切り裂くように吹いていった。
「……同棲するってこと?」
「そう。就職したら否応なく忙しくなるだろ。新生活で大変だと思うけど二人で一緒にいられたら乗り越えられんじゃねーかなって」
「本音をどうぞ」
「今までみたいに会えなくなるのが嫌だ」
「……うーん、そっか」
じゃあちょっと考えさせてと言った彼女の答えがあれだなんて俺は信じない。
なんで別れようなんて話になった? 同棲が嫌ならそう言ってくれればいいのに。無理矢理一緒に住みたいわけじゃない。ただ側にいたいと思ったから、同棲が最善だと思っただけで。
彼女が望まないならまた違う選択肢を探すだけだ。それなのに。
「終わり、とか」
ありえねー。
兎にも角にも直接会って話さなくてはならない。そう思った俺は就活の合間合間になんとか彼女とコンタクトを取ろうと図ったのだが。
彼女も当然ながら就活の最中だ。そうそう時間も合わないし、おそらく会わないようにもしているのだろう。
今日偶然キャンパスで鉢合わなければ、いつ会えたか、わかったもんじゃない。
「今、時間は」
「……ちょっとなら」
「10分でいい。理由を聞かせろ」
怒ってはいない。ただちょっと傷ついているだけで。
大学近くの学生が選ばない喫茶店に入って二人でボックス席に座る。向かいあった彼女は少し青ざめて顔色が悪い。
俺のせい? それとも忙しいだけ?
「なんで、別れるって言った?」
俺が聞きたいのはこれだけだ。もし、本当に別れたいなら、絶対嫌だけど、彼女がどうしてもというならば、俺は受け入れなければいけないと思っている。
「同棲が嫌なら別に強制しないし、このままでもいい。会いにくくなっても時間作るし、その努力はするつもりだ」
「…………うん」
「……俺の言葉は信用出来ない?」
「……そうじゃ、ないよ」
「なら! ……なんで? 理由がないと俺も納得出来ない」
彼女は俯いてなかなか話しだそうとしない。けどここで焦って怒鳴って問い詰めたとしてなんの意味もないことはわかる。なくなりそうな余裕と理性を必死にかき集めて、俺は彼女のタイミングをただ待った。拗れて喧嘩別れ、なんて結末は望んでないから。
手慰みに頼んだコーヒーを飲む。白いカップはうちにあるペアのものに似ていて妙に胸が疼いた。……別れたくなんて、ないな。
「あのね、」
顔を挙げた彼女の瞳には涙はなかった。けれど何か決意の滲む目をしていた。
「私、このままだと、お荷物になっちゃう気がするの」
「……は? 意味わかんねえ」
「だって、私、思ったことあんまり正直に言えないし、なんか色々我慢させてるなっていつも思ってて」
「……それで?」
「お互い就職したら絶対余裕なくなるし、そしたら私、もっと迷惑かけちゃうなって。君は優しいから怒らないけど無理させてるなってわかるの、逆に辛くて」
「……だから、別れようってか?」
「……うん」
馬鹿馬鹿しい。彼女が色々考えて出した答えなのはわかる。でもあまりにも馬鹿馬鹿しくて、ため息が出る。
「あのな。俺は二人でいることによって起きる苦労と、お前自身を天秤に掛けたら、お前に傾くような男なの。困難上等、苦難上等、お前のいない未来より遥かに良い。お前にとって俺っていなくてもいい存在なの?」
俺はその程度の存在?
彼女は優しいから、俺の負担になりたくないだとかそんな余計なことばっかり気になってネガティブになって、いっそ別れた方が俺のためだとか思ったんだろう。そんなところじゃないかと思っていた。
俺にとって彼女を失うことの方が辛いなんて、思いつきもしなかったんだろう。それは、確かに寂しいけれど。でも彼女なりに俺を思って出した答え。その思いを否定はできない。
俺が今すべきはそれをノーにするために説得するだけだ。
ぽろり。喧嘩しても泣き映画見ても泣かない彼女がまた泣いた。あの別れ際の時みたいに。これは流石に焦る。
「な、泣くなって。そんな泣くようなこと俺言った?」
「だって」
「だって?」
「………………嬉しくて、」
「え……」
「ごめん、私ずるいね……勝手に不安になって、勝手に結論だして……でも、やっぱり別れたくない……」
面接用に来ていたスーツの内ポケットからハンカチを取り出す。これもいつだか彼女がアイロンを掛けてくれたものだ。
「馬鹿だな。俺は、その言葉だけで十分だよ」
君を好きでいさせてくれて、ありがとう。
ちょっとした波乱はあったけど、お互い無事に就職も決まり、いい塩梅の物件も見つけた。卒業を前に一足先に引越しを済ませて俺たちの同棲生活は始まっている。
料理は交代で作り、水仕事は俺、掃除は彼女、なんて細々と役割を決めて。それ以外に気になったことはその都度話すようにしようと話し合った。
きっと問題は起きるだろう。それでも彼女とならば、乗り越えられる気がした。いや、乗り越える努力をしていこうと決めた。
二人でいるこの先の時間のために。
ある日の昼下がり。なんだか俺は唐突に我が儘が言いたくなって、彼女に言ってみることにした。
「ねえ、お前ってさ。ケーキ作れたよな」
「あー簡単なやつなら」
「俺なんか甘いもん食べたいんだけど」
「今?」
「今」
「買ってきた方が早いよ?」
「お前の作ったのがいい」
「うーん……ちょっと待って、材料あるか見てくるから」
彼女はそう言ってゴロゴロしていたソファーから立ち上がり新居のキッチンへ向かった。生クリームもないのにケーキなんて作れないだろうな、なんて思いながら俺のためにどうしようかと悩んでる後ろ姿を見て嬉しく思う俺はちょっと意地が悪い。もう少しだけ悩む姿を堪能したら二人で買い物に行こうと誘うか、外に食べに行こうかと言うか考える。
「あ、」
「どうした?」
「ホッケーキミックス見つけた。それっぽいのなら作れるかも」
「マジで?」
「パウンドケーキならたぶんいける」
「へえすごいな」
「今はレシピがいっぱいある時代だからね。バナナとかリンゴとかあるし入れる?」
「入れる」
「わかった、じゃあちょっと待ってて」
まさか作れるなんて思ってなかった俺は驚きつつもなんだかやけに嬉しそうにしている彼女に俺も嬉しくなってついニヤける。
それを見た彼女に「そんなにケーキ食べたかったの?」なんてからかわれたけど、まあ、そういうことにしておこう。
「わーうまそー」
焼ける匂いからして美味そうだったが、実物も美味そうだ。
「これは初めて作ったから失敗してたらごめん」
「いーよ。それにたぶんこれ絶対美味い。いい匂いしてる」
「お菓子は焦がさない限り失敗しててもいい匂いなんだよ」
「ばーか、お前が作ったからに決まってんだろ」
不安そうな彼女に本心からそういうと真っ赤になって黙ってしまった。不意打ちに滅法弱い彼女が可愛い。
「ケ、ケーキ切るね!」
「じゃ俺コーヒーいれる。お前は?」
「うんお願い」
「りょーかい」
ちょうどおやつの時間だ。コーヒーの深い香りとケーキも甘い匂い。それから彼女がいるだけで腹いっぱいになりそう。
「食べてみて」
「おう」
……もちろん食べないなんて選択肢はないんだけど。
「…………、ん、うまー!」
「あ、ほんと? 良かった、ちょっと不安だったんだ」
「甘すぎないしパサパサもしてないしこれめっちゃ食べやすい。お前も食べろよ」
「うん、…………あ、うん、ちゃんと生地膨らんでるね。私はもう少し甘くてもいいかなー?」
「そうか? じゃあコーヒーもう少し砂糖入れる? 甘いもん食うから少なくしちゃったんだけど」
「ううん、平気。ありがとう」
「これアーモンドとか入ってても美味いかも」
「いいね。生クリーム付けてもいいよね」
「そうだな。今度でいいから、またやって?」
「じゃあ食べたくなる前に教えて。材料買わないと!」
「無理言うなよ! 材料は一緒に買いに行けばいいだろ?」
「それもそうだね」
なんて笑い合うことの出来る時間に幸せが降り積もるのを俺は確かに感じた。
つづく