潜水
暗い。明かりがついていない。
引き出しがいくつかついている木製の家具の上に、ふちが波打つ金魚鉢が載っている。それには水が充分に入っていて、数本のチューリップが活けられている。サカナのひれを翅にした蝶が、チューリップの茎の間をゆらゆら光って泳いでいる。床に座り込んだ女児は、小さな木製テーブルの上に、白色の立方体を八個積み上げた。「これでもうここじゃない」と女児が言った。それを隣で見ていた初老の男は何か言ったけれど、声が小さすぎて聞こえなかった。
「夢だ」
呟いたその瞬間、首の後ろから白い手が二本現れた。胸倉を掴まれ、一気に後ろへ引っ張られる。一瞬だけ、すさまじい速度で飛んだようだった。
彼はベッドの上で目を覚ました。いつもの自室で、いつもの時間で、いつもの目覚まし振動が鳴っていた。体温が上がっているようで、布団の中に気持ちの悪い熱が淀んで溜まっている。彼は勢いよく布団を蹴飛ばして起き上がり、窓を開けて新鮮な空気を吸った。震動し続けていた携帯電話を黙らせた。早朝六時だ。
最近は失敗続きだが、今日の夢は特に失敗した。唯はそう思った。失敗と決定づける要因は、夢に出現させようとは思わなかったものが出現し、出現させたかったものが出現しなかった点だ。
唯は机の上のメモ用紙に、失敗の要因と日付を殴り書きした。メモには昨日も一昨日もその前も、日付違いで同じことが書いてある。
携帯電話を開き、「はじめさん」を宛先にしてメールを打つ。内容は「今日もダメでした。この前聞いた正八方体?が出てきた」。送信してすぐに携帯電話を閉じ、ベッドの上に放り投げた。早朝なので、返事はすぐに来ないと思ったからだ。
唯は煙草を咥えて火を着けた。まだ人間の動きのない外界へ煙を吹いた。
空は晴天で、遠くの方に月がまだ見えていた。もう少し陽が昇れば見えなくなるくらいだ、と唯は思いながら煙が消えて行くのを見つめていた。風はゆるやかに吹いている。
メール着信の振動が鳴った。先ほどのメールの返信だった。件名は「正八胞体」と書いてあるが、唯には何がどう違うのかよくわからなかった。それはこの前にはじめから聞いた、非常に難しい数学の話だ。あまり件名は気にせず内容を見ると「了解」とだけあった。これもいつものやりとりだ。文面に愛想がない、と唯が思っていたら、二通目のメールが来た。内容は、
「どんな夢だったら『ダメ』じゃなかったのか?」
というものだった。質問というか、疑問の箇条書き程度の文章だ。会話なのかこれは、と唯は文句を垂れながら、返信メールに「好きな人を出したい」と書いた。
すぐに消して、「はじめさんの夢」と書いた。
またすぐに消して、「好きな人の夢」と書いた。
何度も何度も伝えているのに、はじめはいつも素気なくて反応が薄い。
唯は十数枚の束になっている夢のメモを開いた。数か月前の「成功」の字を見つけた。続きにはいつもの殴り書きで「手にさわれた」とある。
光の中で触れたのは彼の手だったに違いない、唯はもう一度それを見たかった。
留年高校生ゆい(20さいくらい?)と大学院生はじめさん(23さい?)
わりと本気で君の夢を見たいBL
この後正八方体(?)の絵を描いて見せて
はじめさんに「ハァ?」ってかおされる