江戸時代の古文を現代風に通釈してみたw
ここに一冊の手記がある。私の学生時代からの友人であるSの手によるものだ。彼はとある財閥の御曹司で非常な愛妻家だった。しかしその妻が病死すると彼はふさぎこみ、二人の子供を母親の家に預けて、私たちの前から行方をくらませた。それから数年後、私は久々に彼に呼び出され、一晩酒を酌み交し、そのときに彼からこの手記を手渡されたのである。
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<手記の最後のページ>
私の足が母の家に近づくにつれて、息子たちへの恋しさも自然と胸にこみ上げてきた。長男は私の訪問を誰かから聞いていたらしく、そそくさと家のまわりを歩き回っていたが、道の向こうからやってくる私を見つけるや否や、それを教えようと家の中に駆け込んで、「お父さんが来たよ!」と母に報告した。母は笑顔で私を出迎えて、「おかえり」と言う。私は客間に上がって、今の生活について母に語った。
母に抱かれて胸の中であやされている幼い長女を見ると、私はどうしても悲しい気持ちになってしまう。最近になって彼女は急に大人っぽい顔つきになった。キャンキャンと甲高い声でおしゃべりする彼女のまだあどけない容貌は、死に別れた妻の生き写しのように見えてしまう。私は耐えられなくなって、泣き出した。母も「『病は気から』なんて言葉があるけど、人は心の持ちよう次第でどうにでもなってしまうね。落ち込んでるときは何を見たって湿っぽいことばかり思い出しちゃうわねぇ」と同情した様子で私の涙を拭くのであった。
長男が「妹を観察しよう」と言って近寄ってきたので「どうだい?カワイイと思わないかい?」と私がきくと、彼は頭を横に振って「思わないよ。この子がいるから、おばあちゃんは僕を抱っこしてくれなくなったんだもん」と不満げに反論してきた。これには私も悲しい気持ちを少しのあいだ忘れて、「いつまで抱っこされたいんだい。お兄ちゃんなんだから、今から大人になる準備をしようじゃないか。むっつりしないでさ」と言えば、「そうじゃあないんだよ。僕にもちゃんとお兄ちゃんとしての自覚はあるんだ。僕が問題だと思うのは、おばあちゃんの方なんだよ。僕が妹を抱っこしようとするとさ、『落っことしちゃうからダメ』ってゆるしてくれないの。おばあちゃんみたいな貴婦人が赤ちゃんを抱っこしてるなんて、僕には耐えられないのに、やらせてくれないんだよなあ」とマセたことを言う。母はそんな彼を誇らしげに見ながら、「この子ったら、いつもこんな風に偏屈なことを言うのよ。誰に似たのかしらねぇ」と笑った。
私は長男を抱き寄せて「子供っぽいわがままを言ってないで、おとなしくするんだよ?いいね?お婆ちゃんに心配をかけさせちゃだめだからね?」と少し威圧的に教えを説いてみたが、あまり効果は無かったようで返事をせずに黙っている。そんな彼を眺めていると悲しみが再び募ってきて、「そうは言っても、この子が大人になる頃には、僕はもうこの世にいないのだろうけど……」 とつぶやいて、私の目からは涙がとめどなくあふれ出た。
「それはどういう意味なんだい?」と母は神妙な面持ちで私にたずねた。「卑屈な気分でモヤモヤした毎日なんだ。もう長生きする気も起きなくてさ」とそれとなく自殺をほのめかした私のこの告白は、母を豹変させるのに十分な威力を秘めていた。
「ふざけるんじゃないよ。そんなこと言うもんじゃない。誰だってつらいことはあるんだ。珍しいことじゃない。恋なんてただの幻想なのよ。ずっと一緒にいましょうね、なんてロマンチックな約束をした相手も、時間が経てばどうでもよくなるもんよ。でもそれが薄情だってわけじゃない。かえって堅実で素晴らしい美徳じゃないか。お父様も『そろそろ後継者を』なんてボヤいていて、『わが社を継げるのはあの子しかいないだろう』ってあんたに期待してるのを私は聞いたのよ。それをなんだい、全部ご破算にしてしまおうって魂胆かい?あの嫁のことはさっさと忘れなさい。これは命令よ。でも、誰のための命令かよく考えなさい!?」と母は唾を撒き散らしながら私をまくし立てた。
「僕だって彼女のことを忘れたい。でも誰のためにかっていうと、それは彼女のためになんだ。何をするにしても、僕のあらゆる行為が、彼女の死を前提に成立してしまっているんだ。彼女はもう、僕の存在の条件になってしまって、1つの概念になってしまっていて、消し去ることが不可能なんだよ」
そんな私の言葉を聞きながら、母は私を睨み付けていた。
「そこまで分かっているなら、後はもう忘れるだけじゃないか。その最後の一歩が、どうして踏み出せないのだい?みんなそうやって忘れて生きているのに、自分だけお嫁さんの死にこだわって何になるというのだい?ああ、分からない。私には理解不能だわ」
そんな風に愚痴りながらも、母が私に同情して心配しているのは間違いないことだった。そんな心優しい母に自殺の決意を伝えるのは、それを聞いた母の顔を想像するのは、あまりにも辛いことなので、私はこの手記を、母にではなく友人の誰かに託そうと、そう思った。
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この手記が書かれた数日後、Sは私を呼び出し、酒を飲み、手記を手渡し、私と別れたその帰り道に、駅のプラットフォームから電車に飛び込んで死んだ。