閑話[湖のほとりにて]
【サウズ湖のほとり】
「……死ぬかと」
「そ、その点に関しては申し訳なく思ってます……」
サウズ王国の外壁のすぐ傍にある湖のほとりで、スズカゼとハドリーは膝を抱えて水面に視線を向けていた。
彼女達の視線が向いた湖ではぴちゃんと小魚が跳ねて、鏡のような水面に波紋を呼び起こす。
スズカゼはそんな水面の上で揺れる浮き具を見ながら、ぼそりと呟き始めた。
「あの、確かに獣人達からすれば確かに私は……、何と言うか……」
「英雄、ですか?」
「そんなに凄い物じゃないですけど……。……何と言うか、さっきのはどうなんですか?」
前にも記したが、獣人の身体能力は人よりも遙かに高い。
スズカゼは第一街と第二街の狭間である東門で獣人達に迎えられた時、とんでもない拍手喝采と歓声に迎えられた。
それを上乗せするかのようにジェイドの忠誠の儀式だ。
あの後の胴上げだのもみくちゃにされた事だの、人よりも遙かに高い身体能力を持つ獣人によれば、まるで力士の群れに張り手をされているかのような感触だった。
だから、死ぬかと、という事である。
「……申し訳ないです」
「いや、別に良いんですけれどもね……」
その乱騒から逃れるために、今、スズカゼとハドリーはこのサウズ湖のほとりで腰を休めているのだ。
彼女達はただ休むのも何なので、何故だか落ちていた竿を使って釣りをしている。
ただハドリーはその釣り竿を見た時に、何処となく眉根を寄せていた。
「…………」
魚の跳躍によって浮き具がぽつんと揺れて、水面を泳ぐ。
再び会話が途切れて、スズカゼとハドリーの間には気まずい空気が流れ始める。
気まずい、と互いに汗を流すが、どうにも会話が出て来ない。
「そ、そう言えばー……、聞きたい事があるんですけど」
「な、何ですか?」
「私の自転車と傘、どうなりました?」
「えっ」
スズカゼがこの世界に来たときの、唯一の所持品である自転車と傘。
ゼル邸宅の牢屋に入れられた時には既に無くなっていたが、一体全体、何処に行ってしまったのか。
尤も、彼女が異世界から来たという事すら知らないハドリーが知るはずもないのだが。
「その事については私が説明しよう」
全く解らない質問をされて驚いていたハドリーの背後に立つ、一人の男。
ハドリーは彼の声に再び驚いて体をびくりと震わせる。
スズカゼも似たような反応を見せたが、その声の主を見て呆れたように肩を落とした。
「ハロウリィ、お嬢さん方」
「……何やってるんですか、リドラさん」
背筋を猫のように曲げた男はのそりのそりと歩いてスズカゼの隣に腰掛ける。
ハドリーは思わず悲鳴を上げて後退ったが、スズカゼは二度目なので流石に嫌そうな眼をするだけに押さえている。
それ故か、水面を眺めるリドラの瞳には薄らと涙が浮かんでいた。
「で、私の自転車と傘はどうなったんですか?」
「少しぐらいの労りは欲しかったのだがな……。……ともかく、君の自転車と傘の現状だったかな」
「傘はともかく、自転車は徳島からの付き合いなので心配なんですよ」
「……トクシマとやらは知らないが、君の心配している状況には陥っていない」
「無事なんですね!?」
「あぁ、今はサウズ王国立博物館に保管されている」
「えっ」
「精霊の所持品は主にその者の手から離れれば消える事が多い。それに、あの様な形状物は見た事もないのでな。博物館に寄贈しておいた」
「……誰が?」
「この王国に運び込まれた希少品は鑑定士が鑑定することになっている。……主に国家お抱えの者などがな」
「テメェか」
「女性の口調では無いぞ、スズカゼ・クレハ」
鬼面が如く牙を剥くスズカゼと無表情のまま彼女から視線を外すリドラ。
そんな状態が数分ほど続いた頃、動いたのは今まで置いてけぼりだったハドリーだった。
気まずそうに手を上げた彼女に二人の視線が集められ、ハドリーは再びびくりと肩を震わせた。
「あ、あのぅ、この方は……?」
「これは失礼、自己紹介がまだだったな。私はリドラ・ハードマン。[鑑定士]だ」
「か、鑑定士で、リドラって……!」
「昔は名を馳せた物でな……、照れるじゃないか」
「あの変人で有名な……!!」
スズカゼは見ていた。
リドラの頬を一筋の涙が伝わるのを。
「……ともかく、ですけど」
彼女の言葉に会わせるように、ぽちゃんと浮き具が沈んで竿が湖の中へと引き摺られていく。
大きな魚が掛かったのか、その勢いはかなり早い。
急いで掴まなければ竿が湖の中に引きずり込まれ、文字通り藻屑となってしまうだろう。
「私の自転車は高校時代から使ってる愛車なんです! 雨の日も雪の日も台風の日でもあの子と一緒に迫り来る豪風と車の波超え山超え風超えて!!」
「落ち着け、何を言っているか解らなくなっているぞ」
だが、先程まで釣りをしていた少女の注意は今、完全にリドラへと向いている。
ハドリーもそんな二人を止めようとして竿が引きずり込まれている事には気付いていない。
ぎゃあぎゃあと叫くスズカゼは自分の足下の竿の半分が湖へ引きずり込まれているにも関わらず、まだ気付いていなかった。
「何をやっているんだ。全く」
竿が完全に湖に引きずり込まれる直前、それを掴んで引っ張り上げたのはジェイドだった。
少し毛並みの乱れた彼は、竿を上手く使って水中の獲物を引っ張り上げる。
その速度は最早、達人の域に近い。黒豹の獣人である彼が釣りが上手いというのも妙な話ではあるのだが。
「……竜魚の稚魚か。食えないな」
ジェイドは自分の手よりも少し大きな、現世で言えば店で出てくる鯛ほどの大きさの魚を湖へと放り投げた。
大きさ的に見れば充分にも食べれそうな物だが、竜魚の稚魚は鱗が固く刃物で切るのも一苦労で、さらに切ったとしても肉が固くて食えた物ではないのだ。
成魚となれば大きさは数倍になり鱗と肉も軟らかくなって、やっと食える物となるのだ。
「あ、ジェイド。住人達の騒ぎは収まりましたか?」
ハドリーの質問に、ジェイドはこくりと頷いた。
恐らく彼の乱れた毛並みは狂喜乱舞する獣人達を止めた故の物だろう。
彼の少し気疲れした表情から、獣人達の乱騒加減が覗える。
「ご苦労様です。スズカゼさん、もう街に帰っても大丈夫そうですよ」
「……もう、あの荒波に呑まれない?」
「だ、大丈夫かと……」
「じゃぁ、戻りましょう! もう湖のほとりで膝を抱える必要なんてない!!」
目を輝かせた少女は嬉々としてサウズ王国の入り口へと走っていく。
ハドリーもまた、そんな彼女について急いで飛んでいった。
残されたジェイドとリドラは二人の後ろ姿を見送り、やがて湖の水面へと視線を戻す。
「久しいな、リドラ・ハードマン」
「あぁ、貴様の眼を見た時以来だ」
「……ゼルの家では獣人達が世話になったな」
「それは物好きの奴に言え。こっちは金を貰って治療する……。ただの仕事だ」
「獣人を診る物好きなど貴様ぐらいだろうがな。……それで、どうしてここに居る?」
「その言葉はそのまま返そう、ジェイド・ネイガー。私は今回の英雄様を迎えに来ただけだよ」
「……俺はただ、自分の竿で釣りをしに来ただけだ」
「理由は下らん物だな。双方、どちらにしても」
「あぁ、全くだ」
彼等の視線は、再び水面に浮かぶ浮き具へと移り変わる。
波にたゆたう浮き具はゆらゆらと、水面の上を踊るように揺れていた。
彼等は得に言葉を交わすでも無く、その浮き具と水面に見入っている。
「……我々を変えたのは、下らん少女の言葉だった」
「あぁ、そうらしいな。第一街はその噂で持ちきりだぞ。精霊の少女がメイア女王に直談判した、と…………」
「下らん。我々の何百という歳月に渉る訴えよりも、一人の少女が述べた下らん言葉が女王の心に届いたのだ」
「恨むかね? 彼女を」
「それこそ下らんという物だ」
ジェイドは竿を引き上げ、その先の水が滴る浮き具を手元へと持って行く。
浮き具のさらに先、獲物を釣る為の針には餌が付いていない。
ただ銀色が水滴と相まって美しい光を反射させているだけだった。
「……下らんだろう、全く」
「あぁ、全くだな」
彼等は互いに薄く微笑みを浮かべながら、餌の付いていない針を再び水面へと放り投げた。
ぽちゃん、という音と共に浮き具はまた水面へと舞い戻る。
「む?」
水面に沈む音と共に、再び鳴り響く足音。
つい先程、王国に戻っていったはずのスズカゼが再び戻ってきたのだ。
遠くて声こそ聞き取りづらいが、何やら忘れ物、と言っているらしい。
「どうした、スズカゼ。王国に戻ったのではなかっ」
「怨みじゃゴラァアアアアアアアアアアッッッッッ!!」
少女の物とは思えない、凄まじい拳撃がリドラの腹部へと叩き込まれる。
ゴゥンッ! と内臓まで衝撃が突き抜けて、彼は思わずその場に蹲った。
「それじゃ!」
暴動中の街中に放り出された怨みを晴らし、忘れ物という名の拳を置いていった少女は満足そうに微笑んで再び王国へと帰っていく。
残されたのは呆然とするジェイドと腹部を押さえてL字どころかU字に背を曲げたリドラだった。
「……大丈夫か?」
「無理……、ごふっ」
因みに、これはリドラがゼルを尋ねる三時間前の話である。
読んでいただきありがとうございました
閑話も少しずつ挟んでいこうと思います
今回の二回更新は一回目が短かったので、頑張ってみました
編集君が徹夜で日の出を拝んだそうです。お疲れ!