亡失を知らず
メイアウス・サウズ・ベルフィゼアにとって、それは手駒の一つでしかなかった。
「…………」
端的に言えば、虚無感なのだ。彼女に赦された最大の感情はーーー……、虚無感。
幼少より強大過ぎる魔力を持った彼女はいつしか、自身と他人が別の生物なのではないか、とさえ思うようになった。
誰かが笑ったり泣いたり、そういった事をされる度に彼女は感じる。
彼等は何が面白くて、何が悲しくて、と。
{鎮魂ならば……、遮りはせぬが}
王族、ということも災いしたのだろう。
彼女のそれを矯正する者も居らず、むしろ正しいと述べる者さえ居た。
故に、虚無感。それは退屈となって、彼女に降り注ぐ。
結果的に言えば、彼女は大戦が巻き起こる最中で女王となり、ある人物に出会うまで怠惰に日々を過ごす。
怠惰に、幾千幾億という人間を、埃でも払うかのように殺戮していた。
「いいえ、結構よ」
やがて彼女の人生はその人物と出会ったことにより急速に回転していく。
様々な人物に出会い、様々な戦場を越え、様々な異端を相手にして来た。
それで漸く彼女の渇きは少しだけ潤うこととなる。ほんの、少しだけ。
渇き果て亀裂の奔った大地に一滴だけの雫を垂らしたかのように、ほんの僅かな。
「さっさと始めましょう」
繰り返す。彼女にとってゼル・デビットもバルド・ローゼフォンもファナ・パールズも、リドラ・ハードマンも、ナーゾル・パクラーダも、イトー・ヘキセ・ツバキも、メタルも、スズカゼ・クレハでさえも。
誰も彼もが所詮、彼女の手駒でしかない。渇きを潤す為の手駒でしかない。
全ての計画という、ただその一雫のための手駒でしか、なかった。
{……不器用なのだな}
彼女は知らない。己の中で燻る僅かなその感情を。
自身の眼下で両手を組み、最早瞳を開くこともないその男の姿。
それを見た瞬間に、少しだけ産まれた感情を。
「喧しい」
結局、渇いているのだ。
殺戮と虐殺により潤おうとした[灼炎]。
守護と慈愛により満たされた[断罪]。
凝望と期待により待ち侘びた[斬滅]。
達成と過程により願い寄せた[魔創]。
彼等は皆、どうしようもなく、渇いている。
「……必然よ」
世界が、塗り変わっていた。
ツキガミによる次元改変ではない。
それは、メイアウスにより改変だった。
ただ一人の人間が疑似世界を創造し、ツキガミを転移させたのだ。
{やはり、異端。此所までの魔法を……}
「言ったはずよ。さっさと始めましょう、と」
メイアウスが一指を振るうと共に、世界が断絶する。
正しくそれを一枚の絵画として斬り裂いたかのように。
ツキガミの腕ごと、世界一つを斬り裂いたのだ。
{……ふむ}
神の腕は即座に再誕し、天槍を掴む。
そして接続種を孕んだ天霊の核を胸元に仕舞い込み、突貫して来るツキガミに対し、メイアウスは異様なほどに冷静だった。
否ーーー……、冷悪だった。
「一つ、再誕」
確かにツキガミは己の腕を再誕させ、槍を掴み突貫したはずだった。
その感触もある。再誕させたという感触もある。
しかしその視界には、自身の腕は映っていなかった。
遙か後方、区切られた世界に、残された腕などは。
{……断絶}
華奢な、純白の指先で紡がれる幾重の線。
線、線、線。幾千幾億幾兆と。無限に紡がれていく線。
それ等はツキガミという個の姿を区切り、引き裂き、断ち絶し。
無数の欠片が如く、空間に縛り付ける。
鏡を槌で叩き割ったように、だ。
{矛盾せし始祖の法則}
亀裂は刹那に消え失せ、断絶されていた肉体は個へと戻る。
其所に亀裂は存在せず、断絶はこの世に概存せぬ法則となり。
「二つ、魔法」
神の眼前に出現する漆黒の斑点。
突貫の速度により頬端に滅り込んだそれは、一瞬で膨張。
口腔の内部より、頭蓋から腹部に掛けてまでを内部より暴爆させる。
「三つ、は……、何かしら?」
最早、脇腹から皮膚のみで繋がっている腕がその球体に接触する、が。
腕は爆ぜ飛び、骨肉の類いが空間に飛散した。
否、それはさらに膨張を繰り返し、やがては彼の肉体全てを吹き飛ばすだろう。
内部よりーーー……、外部の防御など一切無視して。
{三つ目……、か}
頭蓋さえ存在しないはずの神より発せられる、声。
それを聴いた瞬間、メイアウスの耳が弾け飛んだ。
小型の爆薬で吹っ飛ばされたように、ばつんという音と共に。
{有りはしない。原初は全て一からだ}
再誕も、魔法も。
全ては原初の一に過ぎない。
否、全てが原初の一なのだ。原初の一こそが、全て。
「そう」
メイアウスは小さくそう応えると、髪を梳くように己の耳へ指を添え流した。
そうして指先が離された頃には既に、傷は治癒しており。
平然と、ただ全てを見透かし、見下すかのような冷悪な眼だけが、そこにはあった。
{……酷い、眼だ}
言葉と共に、彼の肉体を暴圧していた球体は脆く砕け去る。
代わりに現れたのは落胆の表情を浮かべたツキガミだった。
否、落胆と言うよりは、失望に近いだろう。
余りに物悲し気な、その表情は。
{己の輝きさえ知らぬ眼……。意味さえ知らぬ、悲しい眼だ}
メイアウスの表情は依然変わらない。
その双眸が、神の姿を捕らえるのみ。
{どうして斬滅を寄越さなかった? 奴ならば己のすべきことを知っている。己が何であるか、何を欲すか……、己の輝きを知っている}
だと言うのに何故、と。
そう問い終わった瞬間、ツキガミの片腕が吹き飛んだ。
再び、だ。ただの爆炎による一撃が、彼の肉体を吹き飛ばしたのである。
尤もーーー……、そんなものは最早意味さえ成さず、再誕の中に消え失せるのみ。
「別に……、魂の輝きだとか、世界の行方だとか。そんな物に興味はないわ」
自己満足だ。
彼女はただ、渇きを潤す為にこの計画に乗った。
己の国や民、臣下さえも捨てて、渇きを癒やすために。
「……ただ」
全てが終わった時。
何もかもが終わって、戦火が雨雲に押し潰される中。
自分の隣で軽口を叩く者達が居ないと知った時。
少しだけーーー……、不快だった。
「計画を完遂させることが……、私の目的」
何も存在していなかったはずの世界に、雨が降り注ぐ。
豪雨ではなく、雷雨でもなく。それは木漏れ日のように弱々しい雨だった。
肌を打ったことさえ解らず、気付けば濡れているような、霧雨。
故に、ツキガミはそれに気付けなかった。否、気付いたとしても、降り出した時点で手遅れだったのだろう。
濡れた側から己の魔力が激流のように抜け落ちていることになど。
「ただ……、それだけのことよ」
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