受け継ぐもの
【シャガル王国】
《海岸線》
「……そんな」
波が、荒れ狂っていた。
暴走する天霊の叫びが周囲の全てを掻き乱し、断絶する。
その最中を羽虫のように逃げ惑う船の甲板上で、彼等はただ呆然とする。
呆然と、するしかなかった。
「撤退の準備だ」
そんな中で、酷く息を切らし、瞼下を曇らせたカイリュウが皆にそれを通達する。
船員達は暫し戸惑えど、やがて彼の命令に従って各自の配置についていった。
ただ抗議を立てようとしたココノアでさえ、ムーの制止により声を呑むしか無かったのだ。
「……先刻まで海岸に見えてた変な波も消えた。誰かが止めたのか、それともその必要がなくなったかは知らんがな」
船が、緩やかに方向を転換していく。
眼前の天霊による攻撃で削れた船底や破れた帆が、風に揺らめき、めしりと音を立てた。
ただ静かに、誰も口を開くことのない船上へ響くように。
「だが、バルドの言う通りなら俺達は失敗したのに変わりはねぇ。……世界を救う手段が、無くなっちまったことにはな」
空を舞う、白炎の尾。
悲痛に満ちた彼女の表情と、その手から零れ落ちるように垂れる鮮血。
力無く項垂れる、一人の男。
「……誰が責められる。親を護ろうとした子を、誰が」
カイリュウは崩れるように、甲板へ腰を突いた。
もう指先一本さえ動かすことは出来ない。奥歯が震え、酷く寒く感じる。
未だかつてここまで魔力を酷使したことはない。
回復したとしても、以前のように魔力を操れるかどうかーーー……。
「あの二人を……、回収して撤退だ。後は成るようにしか成らん」
いや、魔力だ魔法だなどは、もうどうでも良い。
どのみちツキガミへ病原菌とやらを到達させることは出来なかったのだ。
未だ、世界中では誰もが抗っているだろう。戦い、傷付いているのだろう。
それでも、届きはしない。彼等の思いさえ、果てに消えるばかり。
「……なぁ、ムー、シャムシャム。これからどうなるんだ?」
「解るかよ。……シシッ」
「私にも……、解りません。けれど……」
彼女達の視線に先に浮かぶのは、やはり異形なる光景。
あの天霊でさえ、この世を滅ぼす一端でしかない。
真なる根源であるツキガミとやらは、あんな物より遙かに恐ろしいのだろうか。
幾人もが命を犠牲にして漸く辿り着いたのに、届かない。
そんな存在より、もっと、もっと恐ろしいのか。
「っ……」
行き場のない想いが、心の底に沈殿していく。
口端を縛り、強く瞼を閉じることしか出来ない。
恐怖はある。けれど、それ以上に、空を舞う彼女の悲痛な顔を見れなかったのだ。
医術の心得があるシャムシャムだからこそ、解る。
あの人はーーー……、即死だ。
「……あの人は、きっと正しいことをしたんだと思います」
例え、世界が滅んだって破ってはいけないものがある。
それは人それぞれだし、きっと決まった形なんてないのだろうけれど。
彼女にとって、それがあの人だったというだけのこと。
だから誰も責めることは出来ないし、憎むこともしてはいけない。
誰でも、きっとその時になればーーー……、そうするだろうから。
{あ゛、は}
天霊は、いいや、最早天霊だったとしか称せないものは嗤う。
何か解らない。何か解らないが詰まっていたものが流れた気分だ。
とても心地良い。とても、とっても、心地良い。
晴れやかな気分だ。心が躍り出すような、陽気に歌い出したくなるような。
嗚呼、気持ち良い。心地良い。もっと、もっと味わいたい。
もっとーーー……、奴等を、潰せば。
{ぃあ゛はははぁははっ!}
海面が一層荒れ狂い、遙か海底より覗く幾十の不気味な眼光。
それ等はやがて外界に姿を現し、蒼鱗を曇天に煌めかす。
水龍シルセスティア。先のより一回り小さい幼体でこそあるが、それ等が数十体と海中より出現したのである。
{あ゛はははははははははははは!!}
容赦なく、躊躇なく。
龍の牙は、自身の狂い猛った眼光を引き裂くように絶叫を上げる。
水面さえも揺るがすほどの咆吼。既に撤退を始めていたカイリュウ達でさえ、まともに立っていられなくなるほどの轟音。
必然、それは空中を飛空していたファナをも貫いた。
貫いた、が。彼女の表情が何色かに変化することはない。
最早、どうでも良かった。自分は失敗し、もう為す術がないことは解っていたから。
ならばもう、いっそ、この骸を抱えたままーーー……。
{無様だな}
水竜の首が、爆ぜ飛んだ。
毟り取り、放り投げられたように。
それは、ぐぢりと、生命のそれが立てたとは思えぬ音と共に。
{怪我人を庇い……、いや、死人を庇い、唯一の機会を逃した。それが大義を任された者のすることか?}
男は、毟り飛ばされた水龍の首根に立っていた。
憤怒に満ちた牙を剥き、失望に満たされた眼光で。
ただ、彼女を睨み付ける。
{貴様はあの時から何も進歩していないのか!? ファナ・パールズッ!!}
その怒号は、彼女の脳髄を叩き伏す。
誰のかはどうでも良い。ただ、その言葉が。
否定することも出来ぬ言葉が、何よりも苦しく、痛々しかった。
{まー、そう言うモンじゃないさね}
そんな彼女の頭に置かれる、武骨な掌。
女性の声色だと言うのに、その掌は酷く堅かった。
{ファナ。アンタは間違った選択なんかしちゃいない}
囁くように。
{大事な時は正しい選択をしたくなるもんさ。それも間違ったことじゃないがね}
諭すように。
{けどね、その時に自分を殺してまで選ぶもんじゃないよ。アンタがアンタを殺したら、それを選んだのはただの骸になるからね}
説くように。
{だから胸を張りな。自分の選んだ道なんだ。その道も知らないような輩に舐められてんじゃないよ}
彼女の掌は、その背中を叩く。
ヨーラ・クッドンラー。その精霊の堅い掌は。
{ワーズ! アンタもぐだぐだ言ってないで手伝いな! こっち任されてんだろう!?}
{……隊長が、そう仰るなら}
ワーズ・ガジェットもまた、彼女の豪声に渋々脅威へと爪先を向ける。
彼等はただ、この場に居た。サウズ近辺で召喚されながらも、此所まで全力で疾駆してきた。
誰もそれを止めはしなかったし、止めようとも思わなかった。彼女達の戦場は、此所にあるから。
{ファナ。アンタが殺したこの命だ。アンタに背負わせた私の命だ}
ヨーラは、彼女を肩口に抱き寄せ、暗く淀んだ瞳を真正面に向ける。
彼女の純粋な眼は何処までも真っ直ぐで、決して淀むことはない。
それは死した時と何ら変わらない、決意と意志に溢れた眼差しだった。
{胸張りな。アンタが背負ったモンがこうして此所に居るんだ。格好悪いトコ見せんじゃないよ}
骸は、何を託した。
彼は、自分に何を成す為に命を捨てた。
否、命を、賭けた。
「……私は」
折れることは、出来ない。
この意志を、覚悟を、決意を。
決して、折ることだけは、したくない。
{腹に力入れな。拳に怒りを込めな。……眼前の的に、恐れを抱くんじゃない}
アンタなら大丈夫さね、と。
その掌は背中を叩き上げ、前へと歩ませる。
共に戦う為に。世界の危機に立ち向かうために。
託されたことをーーー……、成す為に。
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