最悪の敵
【???】
「……ヌエさんも、逝ったようですね」
ハリストスは、胸元に手を添えて祈りを捧げる。
彼女もまた、精霊の安寧を夢見た一人の戦人だった。
その意志と誇りに敬意を表し、今一度祈りを捧げよう。
見事な、戦い振りだった、と。
「これで残るのは私と彼、そしてレヴィアさんになってしまった」
最早、誰一人として欠けられない綱渡りだ。
尤もーーー……、此所から欠ける理由など、何一つとしてない。
全ては順調だ。何もかもが、終焉を掻き立てる要素でしかない。
「そうは思いませんか? ロクドウ・ラガンノット」
彼の前には肉塊があった。
いや、肉塊と述べるにはまだ早い。右腕と首から上を残した状態ならば、まだ。
しかしハリストスが後一度でも指を振るえば、違いなく彼は肉塊と成り果てるだろう。
全能者の、気紛れさえあれば。
「……ところで、私が何故貴方を殺さないか解ります?」
ロクドウはそれに対して何かを述べようとするが、言葉を発するだけの機関がない。
肺胞から空気は取り込めないし、心臓は半分吹っ飛んでいる。意識だけが、奇妙に残っているのだ。
いや、違う。再生に到ってはいつも通りだがーーー……、異様なほどに、その速度が遅いのだ。
「貴方達の再生には痛覚がある。そして、それはツキガミやスズカゼ・クレハの再誕とは違って、あくまで生物的な法則に則った異常回復だ」
その時点で、ロクドウはあることに気付いた。
己の傷が再生しているのではないことに。
いや、正しくは、己の肉体が普段通りに再生していないことに。
「ならばその方向性を捻曲げればどうなると思いますか?」
彼が微笑んだ瞬間、ロクドウの肉体は一気に再生速度を増加させた。
否、それを再生と称すべきかどうかは定かでない。
脇腹から蠱羽が生え、皮膚は鱗となり、爪先は魚尾となった、その姿が。
人間などと言えるはずもないーーー……、その再生が。
「人間は今まで様々な進化の過程を辿ってきた。私には生命を生み出すことさえ出来ませんが、捻曲げるぐらいなら何と言うことはない」
様々な生物から一部を毟り取り、そのままに継ぎ接ぎ。
必然、その体内組織も全く違う。断面こそ塞がろうと、拒絶反応が彼に苦痛を齎し続けるのだ。
激痛はやがて意識を奪い、正気さえも押し潰すだろう。
幾千と続く苦痛の中で、指から順に全身を輪切りにするような拷問よりも、凄まじく。
「さて、これが貴方を殺さない理由。即ち罰です」
存分に苦しんでください、と。
その言葉さえ、ロクドウ自身の絶叫によって打ち消される。
だが、彼が正気を失うことはない。ハリストスがそう精神を保たせている故に。
「……フフ」
絶叫の一句一句が、彼の憎悪を代弁する。
それは聞くに堪えぬ程痛々しいものだった。常人であれば耳を塞ぎ、悲鳴を上げて逃げ出すほどの狂鳴だった。
だがハリストスにとっては、どんな賛美歌よりも美しく、どんな謳歌よりも心地良い。
観測者にとって、罪人の歌ほど楽しいものはないのだから。
「見た目がガキなら中身もまんまガキだな」
耳元で、囁くように。
「……ッ!」
ハリストスはその声の方角全てを圧砕する重力波を放つが、何かが潰れた感触はない。
いや、元より全方位に結界を展開していたはずだ。何かが侵入すれば、察知できたはず。
しかしこの空間には未だ自身とロクドウの魔力しか感じられない。
ならば今の声は、ロクドウ自身とでも言うのか。眼前で絶叫し発狂し続ける男のものとでも言うのか。
そんなことは、決して。
「有り得ないと思うか?」
再び、背後。
ハリストスの一撃は己の世界であろうと、全てを破壊する。崩壊させる。
万物が存在を赦されない。例えそれは空気であろうが塵であろうが、何だろうが。
「まぁ、俺にゃァ関係ねーわな」
全ての、方向から。
その声は雨粒のように降り注ぐ。
「内心慌ててんだろ? もうお前等は壊滅寸前だ。残すは天霊一体とお前、そんでカミサマと来た。誰か一人でも欠ければ計画は破綻する。……いや、お前を除いて、か?」
全ての声を潰すべく、ハリストスは全方位へ次元断絶の一撃を放つ。
空間全てが折り重なる断層のように次元を裂かれる一撃だ。例え何か仕込んでいようとも、これを回避することは出来ない。
狂嘆するロクドウごと、全てを異次元へ細切れのまま送り込む。
必然、この鬱陶しい声もーーー……。
「止まらなぁ~い」
ハリストスの頭が、弾け飛ぶ。
横から全力で殴打されたかのように、一気に。
その小さな体躯は空間を一転二転して弾き飛ばされ、一挙にロクドウから距離を取ることとなる。
少なくともその集中力が途切れ、魔力が届かぬ位置にまで。
「ってぇーなぁー……」
平然と、だ。
狂気に陥るはずの苦痛を繰り返し受けていたにも関わらず。
その狂気にさえ陥れぬ狂気の濁嵐に曝され続けていたにも関わらず。
彼は、ロクドウは平然と立ち上がったのである。
己の手足を自分自身で吹っ飛ばし、再び人間のものとして、だ。
「げ、ぁっ……!!」
ハリストスは己の片耳を抑えて立ち上がる。
しかし脳幹を揺らす衝撃は一時的ながらも彼から思考力を奪い、凄まじい嗚咽感と昏倒感を与えるのだ。
意識が揺れる。この空間を維持することさえも、危うくなるほどに。
「私の、耳腔にっ……!!」
「大当たりィ~。耳の穴に俺の声と衝撃を封じ込めた結界を滑り込ませて貰った。耳掃除ちゃんとしてるゥ?」
刹那、ロクドウの顔面半分が一気に吹っ飛んだ。
否、空間そのものを区切ったと述べるべきか。半顔ごと、消え失せたのだ。
「何故……! そこまでして抗う!? 貴方達の敗北は既に喫しているというのに!!」
最早、彼等に天霊レヴィアを倒せるだけの隠し球はない。
確かに倒せばツキガミもただではすまないだろう。だが、そこに到るまでの過程を、彼等が紡ぐことは出来ないはずだ。
何故なら彼等は既にその隠し球を失っているのだから。
「おいおい、自覚がねェのか?」
お前等が敵に回したのは最悪の敵だぜ、と。
彼の精神に敗北がないように、人類にもまた敗北はない。
例え一度は膝を折ろうとも、その意志はなくならないからだ。
その者の心で燻り、やがて再び燃える時を待っている。
人間は、そういうものだ。戦人とは、そういうものだ。
「どうした? 続けようぜ強者」
ぐずりと再生し始める、肉の欠片。
ロクドウの隻眼は、やがて回復する片眼と共に焔を孕む。
決して消えることのない、意志という焔を。
執念にも等しき、意志を。
「俺はまだ、生きてるぞ」
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