胡蝶の夢
{……夢だ}
最早、ヌエは眼前のそれを否定するより他なかった。
ハリストスによる一方的な攻勢となるはずの霊体の失敗作が、破壊されていく。
自爆や武器の乱射こそ行えど、それ等が全て統率された兵達によって潰されるのだ。
仲間が自爆に潰されようが、銃弾の嵐に喰い千切られようが、表情一つ変えることはない。
冷淡に、冷静に、冷悪にーーー……、的確過ぎるまでに、潰されるのだ。
「そう、これは夢だ」
ロクドウは硝煙巻き上がる戦場を歩んでく。
彼の言葉など無視するように、左右より二人の者共が進み出た。
嘗てベルルークの少佐であった者。嘗てベルルークの大尉であった者。
双対の牙を纏い、刃の鎧を纏う者達が。
「綺麗な蝶々だなァ」
振り払われた腕と共に、二人の者達は疾駆する。
眼前に在すは背に魅惑の羽を背負った蝶。否、天霊。
{っ……!}
彼女は即座に闇影の刃を幾千と展開。
同時に羽には鬱蒼するほどの色が混じり合い、それ等は一つ一つ彼等の眼球へと映り込む。
色彩は脳へ電撃のように轟き、一つの命令を下す。
殺し合え、と。互いに仲間という認識を取り除き、極限まで殺意を高揚させる。
共に最も近い、仲間であったはずの者達と殺し合う催眠として。
{{邪魔}}
尤も、そんな催眠が、いや。
その催眠は例え如何なる精神抵抗を持ってしても抗えるものではないし、一度瞳に映ろうものなら眼球を潰そうとも脳髄に刻み込まれ、決して解除することは不可能となる。
ならば何故、彼等は平然としているのか。当然の様に、歩んでくるのか。
「単純に頭おかしいからだろ」
{{貴方に言われたくはない}ですね}
既に狂い果てた者達に催眠など、効くはずがなく。
元より真正面しか見てない大馬鹿共だ。真正面しか見なかった故に、世界を敵に回した戦争を起こした者達だ。
世界に喧嘩を売ったーーー……、大馬鹿者達。
{この……っ!}
ネイクとオートバーンに飛び掛かる幾千という失敗作共。
霊体故にその実体こそないが、重圧は大地に亀裂を走らせるほどの物であり、彼等の姿を幾十もの霊体の中に押し込める。
その様子を視認するまでもなくヌエは霊体共々、魅惑の羽に収束した剣で薙ぎ払った。
草原の大地が一瞬の内に焦土と化し、草木さえも互いを喰らい合うように、闇へ消え失せる、はずはない。
「俺自身を忘れて貰っちゃァ困るねェ」
展開された紫透明の結界は、白煙を振り払いながら彼の周囲を浮遊する。
嘗てのように巨大で重圧な結界ではない。一つ一つが薄く脆いが、鋭利であり斜角的な、より特徴的な形になっているのだ。
{……何故。その程度の魔力量で、今の一撃を弾けるはずが}
「だろうな。俺じゃお前と単体で戦えば勝ち目もクソもねぇ。今のだって流すので精一杯だ」
だが、と。
区切った彼の左右より、崩落と爆散。
中身を失った彫刻のように崩れ落ちる、右。
内部より幾つもの爆弾を起爆させたかのように爆ぜる、左。
「だが……、今は一人じゃねェ」
耐えながら得た永劫の中に、生き続け。
神の一族であり続け、ただ任務のみに従属し続け。
狂気に堕ち続けた男への、代価。
{……と、いう事です}
{我々は女であろうと手加減は……、女か?}
{声色は滲んでいますが女性でしょう。体付きがそれだ}
「良いからお前等さっさと行ってくんない?」
呆れ果てたロクドウの言葉を受けて、同じような返事と共に彼等は疾駆する。
否、同じ疾駆であれどその様は余りに異なっていた。
刹那にその姿と音を消し去ったネイクと、重戦車のように大地へ躙痕を刻み付けながら突進するオートバーン。
互いに速度は違うし方向性も違う。然れど、それ等は恐ろしいほどに噛み合っていて。
「へーい進め進め-。防御は任せろー」
驚くほどに気抜けした声だが、ロクドウの支援は異常なまでに的確だった。
彼が展開していた結界は大中小の、大きさが一回りほど違う三種に統合される。
大は全てが意志を持つように動き回り、鈍足な、然れど重圧な進行を見せるオートバーンへ降りかかる攻撃全てを弾き飛ばす。
小は空中さえ疾走するネイクの足場となり、或いは盾となってその速度を格段に上昇させる。
中は支援を行うロクドウ自身を守り、周囲の空間から隔絶するほどの起動を見せる。
{何故ッ……!}
「言ったろ? これは夢さ」
幾千の失敗作共が薙ぎ払われていく。
万物を魅了し、操るはずの羽が意味を成さない。
攻勢は止まぬ。彼等の進軍は衰えぬ。
ただ精霊と化した戦兵達が、全てを蹂躙していく。
「全てが偽物。ただこの一刻だけの夢」
戦いが終われば彼等は消え去るだろう。
その魂に安寧はなく、その誇りを受け継ぐ者も居ない。
だが、それで良い。戦場に生き、戦いに狂った者達の末路。
全員が全員、それを望んで、大馬鹿者となった。
「胡蝶の夢だ」
この刹那だけに、全てを。
闘争こそ我等が本望。黄泉の旅路の果てに与えられた、刹那の悦楽。
ただ一瞬。この時だけに、皆がまた戦える。
胡蝶のーーー……、綺麗な蝶の舞う世界で、その羽を喰らう夢。
「ですが、夢は覚めます」
ロクドウの眼前に降り立つ、否、瞬間転移したのは全能者だった。
憤怒に染まった静かな眼が彼の口端を捕らえる。驚愕の声さえあげさせはしない。
刹那に、連れて行く。この場所から、彼を除外する。
「残すモンは残してんだ」
避けは、しない。
否、それどころかロクドウの腕はハリストスの胸座を掴み上げた。
狂眼を見開き、その口端を極限まで引き裂いて。
ただ、嗤う。
「人間舐めてんじゃねェよ、化け物共」
そう述べ終える間もなく、彼等の転移は開始していた。
ただ消え去る刹那、その姿が滲む刹那。
彼等の隣を、疾駆していく影。
「任せたぜ? ニルヴァー」
「あぁ、後は俺が果たそう」
ロクドウの姿は消え去り、残るのは虚影の軍勢だけ。
然れどその誰もがロクドウの姿を気にすることはなかった。
いや、むしろそうある事を知っていたかのように。
{ここからは}
{我等の闘争よ}
彼等は並び立つ。
己の願望に望み果てた者達。
誰かを護る為に耐え続けた者達は。
その蝶を前にーーー……、夢を、奔る。
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