終焉
豪雨のように降り注ぐ瓦礫を弾き飛ばしながら、オクス達は地下施設を脱出していた。
轟音や爆音、そして鼻が曲がりそうな異臭と人形共の残骸。
現実感さえ無くなってしまいそうな程の通路を、ただ彼女達は疾駆する。
その背にリドラとチェキー、そしてイトーを背負って。
「お、オクス! リドラ殿が段々と冷たくなってっ……!!」
「諦めるな!! まだ脱出して手当てすれば間に合うはずだ!!」
彼女の言葉に、背中のイトーがぐっとその肩を掴む。
その力の意味は、恐怖や安堵などではない。
ただ、絶望。彼女は全てを理解しているからこそ、絶望するしかなかった。
「……駄目なのよ」
瓦礫が、彼女達の隣を転がり落ちていく。
「その地上は、ないの」
オクス達の足取りが、僅かに揺らぐ。
それでも彼女達は通路を踏み締めて、疾駆を続けた。
ある意味では、その言葉を振り切るように。
「私達の計画は、ツキガミの魂を壊す計画だった。魂と魄に別離しているのは、計算外だったから。本来ならスズカゼ・クレハの身に全てが喰われていたから……」
だからこそ、止めなければならなかったのだ。
蝕陽を。この世界を覆っている、濁流を。
止めなければーーー……、ならなかったのに。
「手段はない」
あの蝕陽を、世界を呑む濁流を止める術は誰にもない。
例え幾千の力を持ってしても、緩めることは出来こそすれ、止められはしない。
そう、例え四天災者であろうとも、アレを止めることは出来ない。
「ごめん、なさい……」
オクスの背で、イトーはただ咽び泣く。
何もかもを犠牲にして来た。復讐の為、目的の為に。
だと言うのに最後はこうなってしまった。あの男の企みを止めきれず、世界を救うことが、出来なかった。
「私は、何てっ……!!」
彼女の叫びさえも、塗り潰すように。
濁流は世界へ広がっていく。
それこそ、この世の全てに。四大国も小国も村々も、死の大地も。
全てを、全てをーーー……。
【シャガル王国】
《城下町》
「…………そう、か」
南国の国王、シャークは国へ迫り来る濁流を眺め、静かに覚悟を決めていた。
計画の発動合図は来ない。海岸線の激音は、未だ鳴り止まない。
それが何を示すのかは言わずとも解る。人類は、敗北したのだ。
最後の賭けにさえもーーー……、負けたのだ。
「モミジ。ツバメやタヌキバとキツネビ達と一緒に、王城の地下に逃げろ」
それは、国王として最後の命令。
風に靡く髪先を掻き毟ることも、せず。
ただ彼は静かに瞼を閉じ、そう述べた。
「……兄さんは、どうするんですか」
彼女もまた、叛する言葉は述べない。
国王の、否、兄の言葉は確かな物だったから。
例え何を言おうとも歪むこともなく、彼の言葉は真っ直ぐなのだろう。
だから、何も言いはしない。言えるはずも、ない。
「国王だからな。義務がある」
知っていたと言わんばかりに、モミジは彼の隣へと一歩歩み出た。
ならば私もお供しますという、言葉と共に。
「側近ですから。……義務があります」
「……馬鹿野郎」
彼等はただ、その濁流を眺める。
一国へ、迫り来る。天を覆い尽くす異貌成る蝕陽から絶叫を零し。
南国の大国さえもーーー……、それは容易く飲み込んで。
【スノウフ国】
《国境線》
「……避難は、完了したかな」
「あぁ、皆が結界の中に」
ダーテンは両の腕を広げたまま、雪原に剛脚を突き立てていた。
指先に奔る裂傷からは鮮血が飛散し、彼の眼下の黒隈は濃くなっていく。
激闘の中から一時も休まず戦い続けたのだ。無理もないだろう、が。
彼を蝕む理由は、それではない。
「……精霊は、召喚出来ないのか」
「だね。これは、そういう濁流だ」
魔力を喰らい、魂を溶かす。
全てを己へ還元する為の、純白の濁流。
既にダーテンの魔法石による即席結界をも覆い尽くし、半円状に傾れ流れる、無限の暴波。
「もう……、数日は持たせるよ」
「……御意」
諦めるな、と言えるならばどれだけ楽だっただろう。
鬼面族の若、アギトにさえもそれは理解出来ていた。
この濁流は決して止められない。そして、四天災者である彼がそう述べた時点で確定した事実でもある。
確かに鬼面族の援軍であの人形共の波を止めることは出来た。多くのスノウフ国民を救うことも出来た。
だが、この濁流ばかりは、どうしようもなく。
「……出来れば、君も」
彼の言葉を遮るように放たれる拳撃。
それはダーテンへ飛び掛かろうとしていた数体の人形共を瞬く間に撃ち落とした。
散乱する残骸と、それでもなお揺らぐことなき、奇異なる仮面。
「帰る場所など、ありはしない」
既に、北で呑まれていないのは結界に覆われたこの国だけだ。
例え海の向こうであろうとも、それが彼女の居る場所であろうとも。
自分達の一族が待つ、場所であろうとも、もう。
「……あぁ」
ダーテンの指先から、鮮血が垂れる。
雪地に墜ちたそれは静かに染み渡り、消えて逝く。
涙を流すことも出来ぬ彼等の雫の、代わりに。
【サウズ王国】
《城壁外郭》
「……どうやら、彼等は失敗したようですね」
一国の外辺までを覆う、巨大な鎖の防壁。
それ等は濁流を防ぎこそすれ、止めることは出来ない。
少なくともフレース達が戦っている平原の一部から一国の端までを、繋ぐことしか出来はしない。
「そうか」
ウェーンの言葉に、ナーゾルは小さくそう答え、踵を返す。
城壁の上から見えるのは異様なる空を見上げる民々の姿だった。
獣も人もなく、誰もがそれを畏怖し、恐怖するだけの、姿だった。
「……申し訳ありません、メメール殿。折角お力添えを戴いたと言うのに」
「いえ……、そう仰らないでください。我々は貴方達に全てを託した。その結果がどうであれ、後悔の文字はありません」
視界に広がる、悍ましき光。
これが世界に残された、最後の導なのか。
こんなにも悍ましき姿が、世界を照らす神のものなのか。
「……祈る神も、ありませんな」
ただ、受け入れる。
この星に生きる魂の全てが、それを受け入れた。
世界が覆い尽くされていく。純白の死に、墜ちていく。
誰も彼もが、ただ祈る神もなくして、消えて逝くのだ。
否定も拒絶も、無意味だから。それ等は差違あれど、万人に等しく訪れる。
死だ。生命ある限り必ず背負う、救済の証ーーー……。
{時は、満ちたようですね}
ヌエは、天を見上げながら静かにそう言い放った。
最早これも必要はありませんと言う言葉に、フレースが反応するよりも前に。
己の手元にあった闇への入り口を、砕き割りながら。
{残念ながら、撒き餌も意味を成さなかった。……必然では、ありますが}
幾人が消えたのだろう。
慕い、崇め、尊んだあの方達も、消えてしまった。
だからこそせめて私は見届けよう。この世界の、終焉を。
あの天に座す男のように、この、終焉を。
「……あぁ」
ヌエの、視線の先。
蝕陽から汚泥のように流れ出る純白を迎え入れ、ハリストスはただ感涙していた。
余りに美しき、この世の何よりも綺麗な、終焉を受け入れて。
「これ程とは……!」
終焉。彼が望む有終の美の極地。
真なる神様の降臨。力を求め堕ちた半身の姿。
美しい。この世の何よりも美しく、尊い終焉。
正しく自分が望んだ最後の姿。
「さぁ……! 我が友よ! 世界を喰らい賜え! 天を、地を、海を!! 全てを喰らい賜え!! 己の半身と共にこの世に終焉を!! 全てに、終わりを!!!」
彼の叫びと共に、星の外郭は全て純白に覆われる。
新緑の大地も、蒼快の大海も、白雲の天上さえもなく。
全てが、真っ白な、球体へと。
{……これが、我が身。仲間達の望んだ世界}
神は、己の半身の前でその姿を眺望する。
全てが、呑まれ、喰われていく。この世が無に戻っていく。
終焉が、この世界に、墜ちて逝く。
{…………儚き、旅であった}
神は純白の衣より覗かせた腕を伸ばし、蝕陽へと触れる。
それはつまり、世界の終わりだった。
この世の終焉。如何なる魂もなく、ただ数度、陽が沈む内に、皆消えるだろう。
物語の終わり。誰も彼もが、ただ、祈る神もなく。
為す術もなく、消えていくだけ。
全ての、終わり。
指揮棒を振り切られた、終止符のーーー……。
「紫薙武辿」
終焉の世界へ、反響する。
{……何?}
神の指先を蝕陽より跳ね飛ばし、その歪なる巨人の首根を縛り。
紫透明の結界が、蝕陽そのものをーーー……、否。
世界さえも、全て、覆い尽くし。
「よォ、神様……」
その声が、その魔法が、何処から発動されたのか。
神の眼が伝い、地を指す。その魔力の流脈を、一国の端に視る。
必然、その流脈が伝うものの最も近くに居たヌエという天霊も、それに視線を奪われた。
フレースではない。道化師ではない。自分が砕き割ったはずの、闇への入り口に。
「人間を、舐めたな?」
次元の壁を、砕き割り。
幾千と破砕する硝子細工を躙るように、彼は這い出ていく。
その身に迷いはない。黒布で覆われた奥の眼に、歪みはない。
「……ニルヴァー?」
その男は、ニルヴァー・ベルグーンを名乗っている男だった。
黒布でその身を覆い尽くし、それでもなお彼の雰囲気を纏った男。
だが、違う。フレースはたった今この男がニルヴァーではないと、己の夫ではないと確信したのだ。
では、いったい、彼は誰だというのだ。
{何をしたのですかッ!!}
ヌエは問答無用で闇影の斬撃をその者へと放つ。
だが、斬撃は刹那に紫透明の結界に弾かれ、空へと消えていった。
男の剥ぐ、己の顔を隠していた黒布と共に。
「何? 何とは失敬だねェ」
鼻筋に入った一線の傷から添うように、金髪を掻き上げて。
その男は、一本の煙草を口端へと咥え込む。
ベルルーク名産の、既に生産されているはずもない煙草を。
「任務をやってただけさ。四年前から……、な」
{貴様はッ……!!}
男が指を鳴らすと共に世界より一切の濁流が消え去った。
呑まれ、喰い尽くされたはずの獣や鳥も、必然、人や獣人さえも、立ち尽くし。
全てが、終焉に呑まれたはずのそれ等が、元へと戻っていく。
{[封殺の狂鬼]ロクドウ・ラガンノット……!!}
「呼ぶなよ。照れるだろ?」
放たれた幾千の斬撃は、幾度も幾度も結界に弾かれていく。
ロクドウはその最中を平然と歩み、優雅に煙草を吸い込んだ。
天を見上げればこちらを睨み付ける者が居る。
嗚呼ーーー……、何と心地良く、無様なことか。
「どうして、貴方が……!」
困惑の限りを尽くしながらも、恐る恐る問うフレースに対し、ロクドウは口端を平然と白煙を噴き上げてみせる。
危ないぞ、と。一応の注意を掛けておきながら。
「きゃぁっ!?」
フレースの眼前に墜ちる、斬撃。
それは大地を軽々しく裂き、人肉など跡形も残さぬ威力だった。
だが、にも関わらずロクドウは彼女を護ろうともしないし何かを仕掛ける様子もない。
ただ煙草を、愛おしそうに吸うばかり。
「ちょ、ちょっと、せめて援護ぐらい……!!」
「あ? やだよ。俺の知ったことじゃねぇもん」
ロクドウの結界に弾かれた斬撃は周囲に嵐が如く降り注ぐ。
必然、フレースの元にも幾百というそれ等が放たれてきた。
避けられるはずはない。否、避けることさえ、不可能。
彼女は何が起きたのかを理解する暇さえなく、ただ、その斬撃にーーー……。
「お前の旦那の知ったことだからな」
彼女の瞳に映ったのは、一瞬前まで自分が居た場所。幾百の刃に刻まれた場所。
彼女の体に伝うのは、懐かしい、心地良く暖かな感触。
彼女の髪に触れるのは、堅く鋭い、けれど知っている頬の形。
「よぉ、始めるか」
「あぁ。始めよう」
ただ、全てが噛み合っていく。
その男が投げ捨てたのは仮面だった。
何も刻まれず何も彩らない、仮面。
「……ニル、ヴァー?」
男はーーー……、否。
道化師は、ロクドウの隣へと。
「話は後で、だ。フレース」
全てが、噛み合っていく。ただ耐え続けた者達の戦いが今、此所にある。
その誇り高き背中が、ある。
「さーて、契約通りだ。お前は約束を、俺は任務を」
ロクドウ・ラガンノット。
ニルヴァー・ベルグーン。
四年前の大戦で姿を消したはずの、男達が。
世界に残る、唯二の神の一族達が、今。
「果たすとしようか」
その背中を会わせてーーー……、並び立つ。
読んでいただきありがとうございました




