最後の答え
「ねぇ、これはなぁに?」
妹は、生まれ付き目の弱い子供だったらしい。
それでも生活に不便するほどじゃなかった。それを悪化させたのは他ならぬ、栄養不足だ。
「……銃の部品だ。危ないから触るなよ」
そして、その妹の面倒を見ていたのはいつも俺。母親が違うくせに、いつもいつも面倒を見させられていた。
しかし、別に珍しい話でもないのだ。当時はそんな風に栄養不足で弱った子供や異母兄弟なんかは溢れかえるぐらい居た。
伊達に戦争中って訳でもなかったし、知り合いだの友人だのはバタバタ死んでったモンだ。
後方の技術職だった自分が生き残っていたのは、運なのだと思う。
「重くて、冷たいんだね」
「人の命を奪うものってのは、そういうモンだ」
それは、過去の追憶。
覚えているはずもない、然れど走馬燈のように湧き出る過去。
それを思い出したのは何故だろう。あの時は吸わなかった煙草を、吸って居るからか。
アイツが見ていた闇が、目の前に広がっているからか。
それとも、アイツに触らせたくなかった銃が、今この手にあるからか。
「……ふー」
白煙が渦巻き、消えていく。
彼の歩む鋼鉄の世界に、光は無かった。
足下を照らす灯火さえなく、どちらに進むべきかという指針もない。
然れどその足取りに迷いはない。劈くように鳴り響く警報音だけが、ただ世界にあるのだ。
自分が進むべき、世界に。
「まだッ……!」
彼と相反する一室で、イトーはただ盤上を叩いていた。
警報音が五月蠅い。真っ赤に反射する光が鬱陶しい。
それでも、止まる訳にはいかない。左手で解答を、右手で送信を。
彼女はただ繰り返す。ユキバの用意した道を走りながら、その壁面を殴りつけるように。
「イトー殿! これ以上は危険です!!」
オクスが叫ぼうと、彼女は手を止めない。
ただ脳の一部を区切って、言葉に廻す。
全てを、限界の果てまでも、使い切る。
「オクスちゃんは急いでリドラとチェキーちゃんを探して。フーちゃんもよ」
「しかし、このままでは……!」
「このままじゃ生きて帰ったって、帰る場所はないわ」
残り時間、五分。
進行率ーーー……、87%
「進行率が異常なんだよ」
ユキバは通路を歩きながら、革靴の底で鉄板を擦る。
懐に突っ込んだ腕と、銃を握る指先。嫌に、生暖かい風が頬を撫でる。
いいや違う。これは風ではない。異臭だ。
鮮血のーーー……、異臭だ。
「序でに言えばイトーの奴が耐えられていることもな。こんだけ一気に進めて、何で耐えられるのか……」
こつり、こつりーーー……、こつり。
革靴が鉄板を擦る音が、止まる。
彼は微光の漏れる部屋の入り口に背を預け、今一度煙草を口に咥え込んだ。
酷く猫背な男の背中を、眺めながら。
「答えはカンタン。脳味噌がもう一個あるからだ」
気絶した女性を椅子に座らせ、巨大なツキガミの核を操作する機械の前で盤面を打つ男。
保持者の猛攻から逃れきって、ここまで辿り着いた、男。
「なぁ、リドラ・ハードマン」
硝煙と鮮血に塗れた白衣が翻され、彼等の視線は交差する。
中枢。人間が触れて良いはずのない、異様なる存在の前に彼等は居た。
全ての、世界の命運を賭けた鍵の前に、彼等は居たのだ。
「イトーがやってンのは翻訳と計算式の送信だ。成る程、この手のヤツならお前も得意だろうな」
「……ユキバ・ソラ」
ユキバの構えた銃口が、リドラの眉間に向けられる。
引き金を引けば弾丸が彼を穿ち、その身を神の中枢へ沈めることだろう。
その命を絶ち、世界を神の奔流に沈めることだろう。
「生憎と、俺ァ立場的にも興味的にもお前を止めにゃならん。ここで撃ち殺してな」
「……今更、貴様の矜持は問うまい。貴様が何を思い、何を成すかも問うまい」
懐から、小さな箱を。
リドラが掌に持ったのは、本当に小さな箱だった。
その箱の中身は指輪。言い表し様のない、混沌とした色彩の宝石が纏われた、指輪。
「それが切り札か。テメェ等のよ」
「……魔力を浸蝕する、病原菌のような物の集合体を精霊化したものだ」
それは本来の計画で使用されている物だ。
バルドが天霊レヴィアに撃ち込んで接続種とすべきもの。
イトーが幾年をも掛けて創り出した、最後の切り札の鍵。
「これを蝕陽に撃ち込めば、アレは沈む」
「そんでその為の手段が今お前の目の前にある機械、ってか? 確かにそれを解き明かせば蝕陽を制御下に置けるだろうよ」
お前の言うことは有り得ないことじゃない。充分に出来得ることだ。
だがーーー……、と。区切って。
ユキバは銃の撃鉄を、落とす。
「残り三分でここは爆発する。その後、お前はどうするつもりだ?」
もし制御下に置けても、直ぐさま爆発の倒壊に巻き込まれるだけだ。
間に合ったとしても、その後の制御を行わなければならない。そして、それだけの時間は、ない。
「……私は、知っている」
もしここで退いたとして、後に残るのは何だ。
滅んだ世界か? 朽ちた生命か? 緩やかな死か?
どれにせよ同じだ。自己犠牲や殉死などという、立派なものではない。
ただ此所で退きたくない。目を背けて、逃げたくない。
「私は、知っているんだ」
託された、ものがある。
「私の友人は、こんな時に」
あの男に、鉄の騎士に。
「決して逃げたりはしなかった」
疾駆。
リドラは真正面から、ユキバへと突貫していく。
同時に彼の持つ指輪が輝きを放ち、見るも惨たらしい醜悪な精霊が姿を現した。
対するユキバは一切の動揺を見せず弾丸を発射。
魔力を纏い、如何なる装甲をも撃ち抜く特製の銃弾を精霊の眉間へと、撃ち込んだ。
「……はっ」
それは、誤差。
もしその精霊が普遍的な物であれば、今の一撃で全てが決していただろう。
だが、その精霊は決して普遍ではない。余りに、異端なのだ。
造られし精霊。幾つもの属性を泥のように混ぜ合わせ、人工的に生み出された異貌。
故に、誰が知ろう。その生命体を殺すことは決して容易くないことを。
故に、彼だけが知る。その生命体の恐ろしさを。
嘗て彼自身の父が造った、その生命体の恐ろしさを。
「クソが」
人工精霊の、混沌獣の爪がユキバの腹を斬り裂いた。
飛び散る鮮血と骨肉は間違いなく彼の物であり、はみ出た臓腑は致死を現す。
然れど、止まらない。その男は口端を裂けるほどに歪ませ、牙を剥く。
歯牙の隙間から吐息を吐き出しながら、二発目の弾丸をーーー……、リドラの頭蓋へと。
「しぃ」
弾丸が、リドラの頭蓋を跳ね飛ばす。
彼の頭は跳ねるように鉄板へ打ち付けられ、裂けた皮膚からは鮮血が周囲に飛散した。
広がった紅色の海を前に、ユキバは己の腹を押さえながら、一歩、二歩と後退って壁面に壁を付く。
歪んだ頬端。流れ出る脂汗。そして、少しだけ眉根を顰めて。
「……やべェな、その精霊」
主の言葉なく、寸前で弾丸を掴んだ精霊へ、唾棄をした。
「因果が……、追いついて来やがったか」
混沌獣が、その男の顔面を斬り裂いた。
鮮血と共に肉塊と骨片が飛び散り、男は、否、肉塊は鉄壁へと撃ち付けられる。
凄まじい衝撃と共に転がったそれは最早動くこともなく、ただ、その場に夥しい鮮血を零して、沈んで逝った。
「…………っ」
リドラは衝撃によって割れた頭を抑えながら、立ち上がる。
咄嗟に混沌獣が銃弾を止めてくれたお陰で、どうにか致命傷は避けられた。
衝撃は殺し切れずに頭を打ち付けてしまったが、この機械の操作に問題はない。
「イトー……、殿」
進行率は、97%。残り時間は、一分。
イトーから送られてきた計算式が画面の中で煌々と光る。
解かねばならない。解かなければ、終わってしまう。
まだーーー……、諦める訳には、いかないのだ。
「……ッ」
鮮血に塗れ、震える指を動かしていく。
残り四十五秒。慌てるな。確実に解析しろ。
残り三十八秒。間違いなく、構築し。
残り二十一秒。その答えを、導き出す。
「漸く……」
鳴り響いた重音と、消え逝く感覚。
「……か、ぁ」
機械の前で崩れゆくその身を、彼は抑えることが出来なかった。
剥がれ、抉り返された顔面の肉を抑えることもせずに。
ただ、その男は銃を放ったのだ。唯一残された、眼球を照準として。
「だ……、め、なんだよ……」
肉塊にも等しきその者は、無理やりに体を引き摺って機械の元へと歩んでいく。
椅子に座らされ、物言うこともなく腕をたらす女も。
脇腹を撃ち抜かれ、痙攣しながら鮮血を吐き出す男も。
その側から己の片腕を喰い千切った混沌獣も、無視して。
ただ、その機械の元へと、辿り着く。
「恥ずか……、しい……、だろ……?」
機械に映し出されていた言葉は、たった一つ。
全ての数式から求められ、全ての数式が導き出した言葉。
Summer Rain。ーーー……夏の雨。
「……く」
画面を、数発の弾丸が撃ち抜いた。
その火花が散ると共に、彼の嗤叫が一室を反響で埋め尽くす。
来たれ未知よ。未だ人の叡智が届かぬ追憶の彼方よ。
神も人も獣も天霊も何もかもが知り得ぬ、未来という未知よ。
我が手により、来たれ。我が手により、変われ。
「クハ……、クハハッ……」
やがて彼の嗤叫が消えた頃、しぃ、と何かが途切れる音がした。
それを合図とするように警報音はより一層けたたましく鳴り響く。
一室へ疾走してきたオクス達の叫び声も、リドラ達の名を呼ぶ絶叫さえも掻き消すほどに。
然れどそれは、一人だけーーー……。たった一人だけを送り出す、葬音の、ように。
「…………ッ」
その者の名前を呼ぶことはない。
殴ってやるという約束を果たすこともなく、果たせるはずもなく。
オクスとフーはリドラとチェキーを抱え、召喚石の指輪を持って駆け出した。
間もなくそこは倒壊し、崩れ逝く。
幾千の瓦礫が降り注ぎ、爆炎狂い燃える中にただ一人、機械の盤上へもたれ掛かった男を残して。
最早止めることも出来ぬ、世界へ流れ征く純白の濁流という証を残してーーー……。
読んでいただきありがとうございました




