残された時間
何かの、罪滅ぼしじゃない。
「…………ッ!」
今まで自分が利用してきた人達は報われるかも知れない。
何人も見捨ててきた、利用してきた自分の罪も少しは消えるかも知れない。
でも、きっとそうじゃないのだ。自分が今、必死に抗っているのは。
「あと、三十四分……!」
鼻血が止まらない。眼球が渇く。喉が締め付けられる。
それでも、止める訳にはいかなかった。
何人も、血を流した。自分の、こんな流血なんて比じゃないぐらいに。
涙も流れただろう。悲鳴も流れただろう。けれど、自分はそれを踏み躙ってきたのだ。
森の魔女として、復讐者として生きることを決めたあの日から。
「解析率59%。おーおー、凄ぇ速さだ。……けど、そんなに飛ばしてちゃ体が持つかねぇ?」
画面の向こう側で、未だユキバは悠々と煙草を吸って居た。
へらへら笑っているその表情を殴りつけてやれるなら、どれだけ良いことだろう。
だが、それは自分の役目ではない。もうすぐ、オクス達が辿り着くはずだ。
彼女達がユキバを殺せば失敗作共は止まる。そして、自分がこれ等全てを解析すれば、世界を覆い尽くす濁流が止まる。
「……私は」
いつだって、何かを踏み躙ってきた。
彼等への復讐が正義なのだ、と言い訳したこともあった。
やがてそれ等全てがエゴなのだと理解し、飲み込むのにも時間が掛かった。
けれど、だけれどーーー……。たった、これだけ。
今だけは、願いたい。
「何かを救う為に、頑張りたいのよ……!」
意識が、ふつりと途切れる。
眼球が白目を剥き、鼻腔からは深黒い血塊が流れた。
限界、なのだろう。目隠しして針穴に糸を通すような作業だ。それを幾千と繰り返し、余りに重圧な重さの中で耐えてきた。
故に、限界。最早、息をすることさえーーー……。
「ーーー……それが、私の願いだから」
唇を、噛み裂いて。
純白の肌に飛び散る鮮血。己の肉を噛み締める嫌な感触が脳髄に響く。
然れどそれを塗り潰すかのような、鬱蒼とするほどの重圧。
激痛という、刺し殺されるかのような衝撃。
「ぶっ倒れんのは後になさい。私は、裸の女の子の千人囲むまで死なないと決めている」
さらに、速度を上げる。
最早常人の動きではなかった。大凡、それを創り出したユキバでさえ予測し得ないほどの、速度。
数式を最後まで見て思案していない。一つの数字と文字を見て予測し、算出している。
人間が歴史を進めるのに要したのは二千年だ。ユキバでさえ、その半分は要した。
だが彼女は今、それを、この短時間でなぞっている。
「あと、三十一分……!!」
解析率、68%。
いける。この配分なら、いける。
一切の速度を緩めず、今なら、ただ。
「おっと、時間だ」
パチンッ、と。何かが弾ける音がした。
同時に彼女の全身を凄まじい衝撃が襲う。
否、錯覚だ。衝撃ではない。それは音の奔流。
凄まじい、警報のようなーーー……、聴覚を劈く衝撃。
「……な、に」
彼女の指先が止まった。
解答を止めた訳ではない。止めざるを得なかったのだ。
画面全てを埋め尽くす、10の文字を前に。止めざるを、得なかったのだ。
「悪いな。お前に伝えてた時間は嘘の時間だ」
制限時間がありゃ必死になるだろう、と。
だが、それ以上に俺は見たい。勝手見知ったお前の限界なぞよりも、人類の及ばぬ叡智の結晶、彼方の領域に立つ神の姿を。
その為に全てを犠牲として此所まで来たのだ。今、此所に居るのだ。
だからお前は諦めろ。前座としては悪くなかったぜーーー……、と。
「その十分は脱出時間だ。経過すりゃ基地内に仕込んである爆弾がドーン……、ってな。やっぱ悪の組織ってェのは最後は自爆しねぇと!」
しぃ、しぃ、しぃ。
吐息を零す音が鳴り響く。同時に、彼の瞳には蝕陽という扉から首を這いずり出した巨人の姿が映った。
純白の濁流は刻々と広がり、世界を覆っていく。死の大地や西国、北国の半分までも。
誰も彼もが呑まれ、消えるのだ。悲鳴と絶叫だけが、ただ、イトーにも突き刺さり。
「……そん、な」
間に合わなかった。
彼女が膝を折ると共に、画面の向こう側で凄まじい騒音が響き渡った。
鋼鉄の扉が切断され、数多の機械をも吹っ飛ばすほどの衝撃が放たれた音だ。
オクス達が到着し、ユキバを倒したのだろう。彼女達が、やってくれたのだろう。
だが、もう、遅いーーー……。
「……これは」
画面の向こうから聞こえる、オクスの声。
同時に映し出されるのは、虚穴の入り口辺りで見たあの人形だった。
ユキバの姿を映し出す傀儡。偽物の骨肉。
「イトー殿! そちらはどうですか!!」
彼女は機械から擦り落ちるように画面は指先を添わす。
駄目だった、と。ただそれだけを、言い残すために。
言わなければならない。それを、言わなければーーー……。
「……え?」
一つ、気付く。
あの男の白煙と、その体ででよく見えなかった場所。
そこが、意味することを。
「オクスちゃん……、それ、何処?」
見えるのは、一室だった。
この部屋と何ら変わらない、中規模の部屋。
確かに様々なものを操作にするのは可能だろう。この数式さえも、組み立てられるかも知れない。
しかし全てを操れるか? あの映像は何処から来ている? 彼はどうして此所で人形を使った?
今、彼は何処に居るーーー……?
「……まさか」
未知。
あの男が、求めたもの。
人間の、その先。
「まさか……!」
恐る恐る、彼女は一つの数式を解いた。
答えは受理され、進行率が1%上がる。
これはつまり、そういう事なのだろう。
ミスや偶然ではなく、あの男は狙ってやっているのだ。
人間のその先。未だ知らぬ世界への、挑戦。
「……本当に、気狂い野郎だわ」
脱出時間が嘘だとは思わない。
本当に十分後には此所は瓦礫に埋まるだろう。
そして、これを自分一人で解除出来るとも、思わない。
「けどね」
願いの為なら。
例え、自分の人生全てを使い果たしたって、構わない。
生きるというのは、そういう事だから。
「私にはまだ、やるべき事があるのよ……!」
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