迫り来る余命
「ッ……!」
イトーは盤上に指を滑らせる。
展開される幾百の画面。それ等に羅列される幾つもの数字。
余りに複雑な、摂理の一部を区切り取ったようにさえ思える数式だ。
これを個人で創り出した? 全く持って、笑えない冗談でしかない。
「どうよ? 凄ぇだろ」
「ガキみたいなこと言ってんじゃないわよ……!」
「ハッ。酷いねぇ」
未だ画面の中央に残り続けるユキバの顔。
既にオクス達は彼の元に向かっていると言うのに、余裕綽々と言わんばかりに椅子へ踏ん反り返っている。
いや、と言うよりは楽しみに待ち侘びていると言った方が正しいかも知れない。
「ガキっつーけどよ? 人間ガキの心失ったら終わりだと思うね」
「ロリは永久不滅ってことでしょ。照れるわ」
「いや、うん。……いやな?」
コイツにまともな会話は無理だな、とユキバは機上に脚を乗せる。
懐から煙草を取り出し、とんとんと競り上げて口端に咥えて火を灯す。
灯す、が。何を思ったかその煙草を直ぐに消し、少しだけ席を立って別の煙草を吸い始めた。
「どーせどう転んでも最期だしな。ベルルークの高級煙草吸ったろ」
「ちょっと黙ってて。うっさい。集中してんのよ、こっちは」
「よく言うぜ。既に21%解除済みじゃん」
ま、ここからさらに難易度上がっていくけどな、と。
彼女が今やっていることは別段難しくない。あの女の知能があれば解けるものだ。
精々、百通りの問題式があってそれにそれぞれ百の答えがあるだけのこと。
そして、一度も間違わずにそれを解かなければならないというだけのこと。
「凛はどう思うかなァ」
イトーの指が、止まった。
同時に、かちりという音と共に分針が進む。
「俺達が聖死の司書に閉じ込め、最期の最後まで利用し尽くしたアイツは、今の状況をどう思うかな……、ってよ」
その停止は数秒ほどでしかない。
しかし、イトーにとっては数十分にも数時間にも思えただろう。
その名は、己への刃だ。後悔の、犠牲にして来た者達の象徴。
「……決着は付けてるわ」
「地獄で土下座でもするつもりか?」
彼女は応えず、瞬きさえせずに画面上に目を縫わせていく。
今の遅れもまだ充分に取り戻せる。時間は、まだあるのだ。
世界全てが飲み込まれる前にこの太陽を封じ切り、計画を発動させれば充分に取り戻せる。
ツキガミが半身同士を結合させる前に、全てを終わらせられれば。
「残り、四十七分」
白煙が、画面を曇らせる。
彼は袖でそれを拭いながら、今一度その白煙を大きく吸い込んだ。
楽しげに、鬱蒼と曇る白煙を指先で掻き回しながら。
「俺達がこの世界に来た時ァ、まだまだ人間だった」
最早、回想することさえ面倒な程に、過去。
この様になることを思いさえしなかった、自身達がまだ人間だったあの頃。
神も人も獣も魔も、知らなかったあの頃。
「色んなモン抱えてよォ。この世界に関わるとも思いもしなかった。呆然唖然のビックリ大会だ」
やがて、自分達は出会う。
それは殆ど偶然であり、いや、今にして思えば仕組まれた事だったのかも知れないけれど。
それでも自分達はそうなった。聖死の司書を創り、世界各地を旅して己達が呼ばれた理由を探り。
やがては、辿り着いた。その応えに、幾星霜の刻を越えて。
「だが、人間は刻で摩耗しちまう。俺には欲が残り、お前には怨みが残り……、凛にゃ願いが残り、スズカゼにゃ怒りが残った」
俺達に比べりゃマシだがね。
そんな風に嘲る彼の眼が、僅かに細められた。
残り時間はあと四十四分。オクス達が辿り着くまではその四分の一程度か。
刻々と余命が迫るってのは、何と言うか、奇妙な気分だ。
「……人間、肉体は老いずとも、精神が老いりゃやがて残るのは本質のみ、ってか?」
しぃ、しぃ、しぃ、と。
自身には人の未知を求める欲求が残り。
イトーには己の運命を歪めた者達への憎悪が残り。
凛には未だ見ぬ世界への願望だけが残り。
スズカゼには仲間を想う故の憤怒が残った。
「俺は嘗て求めた未知の側に。お前は恨んだはずの世界を助け、凛は願い請うた世界の彼方を眺めて死に……、スズカゼが求めた人間と獣人の平穏は、仲間の死と世界の危機を代償に叶った。そりゃ争ってる場合なんかじゃねェもんなァ」
因果だな、と。
やがて追い立てられる終焉に、誰も彼もが抗っていく。
人はその抗いで限界なぞを軽く超えて行く。未知の集大成こそ、人なのだ。
だからこそ、自分はそれを求める。因果さえも越えようとする人間の姿に、叡智を越える姿を見るから。
「……残り、四十三分」
宣告する度に、縮んでいく己の余命。
未知が迫り来る。自身が知るはずもない未来という未知が。
或いは死という、未知が。
「…………ッ」
イトーは自身の脳細胞を隅の隅まで動かし、みちりと眼球の奥が返るほどに集中して行く。
目隠しして針穴に糸を通すような作業だ。頼れるのは一瞬だけ視認した光景だけ。
「って……」
ぬるりとした感触が唇を伝う。
過度の集中で鼻腔の血管が切れたか。
いや、今は拭う時間さえ惜しい。眼前のこれを解き明かすまでは。
「女の子の裸以外で鼻血出すとはね……!」
必死に盤上へ記号を打ち込んでいくイトーの姿に、ユキバは少しだけ微笑みを零す。
あと、幾刻。お前のその必死さが報われることはあるのか否か。
「四十二分……」
彼は静かにそう述べる。
彼女の隣に映し出されているであろう、分数を。
自分の眼前に映し出されているのとは全く違う、それを。
「……四十、一分」
頬端を歪ませて、述べるのだ。
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