天霊の願い
それは、一瞬の出来事だった。
己の頭より踵を離し、歩んでいく四天災者[灼炎]。
その者は隻腕に焔を纏い、狂嗤に頬を歪ませ、純然なほどの殺意を抱いて神へと接近していく。
己が止めることは出来なかった。肉体が動かず、そも立ち上がるべき脚が未だ再誕し切っていなかったのだ。
故にただ惨めな叫びをあげることしか出来なかった。
出来なかったのだ。故に、そうなり得たのだろう。
その一瞬で、四天災者[灼炎]が姿を消したのだろう。
{捧ゲヨ……}
何があったのかを詳細に説明することは出来る。
その存在が、四天災者と刹那の内に攻防を繰り広げたのだ。
初めに拳を振るったのはイーグだった。拳撃はその頭蓋を爆ぜ飛ばし、地の彼方まで衝撃の痕を刻む。
しかしそれに対し、闇の存在は回避や防御以前に、再生という文字すらも、ない。
元より攻撃を受けていないかのように、平然と、歩んだのだ。
それを前にイーグは狼狽え一つ見せず、続き脚撃二発と火炎の放射を一発。
無論、彼もそれでどうにかなると思っていた訳ではないらしい。その眼は殺戮のそれから模索のそれへと変わっていた。
故に、気付いたのだろう。この存在を前は、最悪の存在であると。
{我ニ}
イーグは手を引いた。
文字通りではなく、防御のために。
もしそれが瞬きほどでも遅ければ、どうなっていただろう。
それが、空塵を払うが如き腕振りでーーー……、彼は遙か地平まで、吹っ飛ばされたのだから。
{捧ゲヨ}
そして、その存在は今、己の眼前に居る。
両手を広げ、迎えるように。その姿は正しくあの御方と重なった。
蹉跌の器に虐げられるあの方ではない。嘗ての、大戦の時のーーー……。
{神よ……}
地に伏すしか能の無い己へ、膝を折って下さる。
差し伸べられたその手が、姿と共に過去の追憶に重なっていく。
神だ。この御方は間違いなく、神なのだ。
例えその姿は悍ましくとも、その身が力を求める権化となろうとも。
今はまだあの太陽という光を喰らっていたように、元の身代に戻ろうとしているだけに過ぎない。
やがてはツキガミと同化し、彼方の栄光を取り戻すのだろう。
あの神々しき神へと、成られるのだろう。
{我ニ、魂ヲ捧ゲヨ}
その者が差し出し、触れた指先よりオロチの肉体は融解していく。
皮が溶け、肉が液体となり、骨さえも塵となる感触。その苦痛は想像を絶する物だった。
だが、それ以上に安堵がある。漸く、己の不始末を付けられるのだ、と。
目的を達成する為の真なる礎になれるのだ、という、安堵が。
{安息ヲ与エヨウ}
オロチの肉体は、沈んでいく。
寄り掛かるように、その身は呑まれていく。
{安堵セヨ。安心セヨ}
腕が、呑まれ。
{我ハ全テヲ喰ライ、天ト成ロウ}
臓腑が、呑まれ。
{アノ陽ヲ喰ライ、人ヲ喰ライ、獣ヲ喰ライ}
双眸さえ、呑まれ尽くし。
{我ハ再ビ、神トシテ返リ咲コウ}
何かが変わった訳ではない。
ただ、己の身代の倍はあろうかという大男が眼前より消え失せただけ。
己の肉体へと、消えただけ。還っただけのこと。
{コノ世ニ君臨スルコトヲ約束シヨウ}
嗤う。
大仰の腕を広げ、天へ牙を向ける。
オロチが生み出した草木はその嗤吼と共に枯れ果て、否、全てが大地へと還り果てた。
草木ばかりではない。業火より逃れていた獣達でさえも、全てが命を失いて地に墜ち、死に絶える。
一度は潤い、そして灼かれた大地が、再び死に覆い尽くされたのだ。
いや、違う。死ではない。それはあくまで還元。神の元に魂魄が還っているだけのこと。
{今征クゾ、半身ヨ}
平然と、歩む。
闇の踵が躙っていた大地は、塵と成り果てていた。
枯れ尽きた地でさえも、喰らう。寸分の生命さえも全て、その身に飲み込む。
{我ガ血肉トナリテ、再ビ魂達ノ怨嗟ニ答エヨウ}
蝕陽を背に負う姿は、如何となく神々しいものだった。
人々がそれを眼にしたのなら、何かを認識するよりも前にそれへ魂が還ることだろう。
だがもし、もしも、それが何かを認識出来る刹那があるとするならば。
彼等は間違いなくそう述べるはずだ。
ーーー……神、と。
{然りであろう}
その者の歩みが、止まった。
刹那の静寂。困惑を、示すが如き、停止。
{…………}
次第に下がった視線に映るのは、腕だった。
飲み込み、喰らったはずの、腕。
{貴方は神だ。儂が崇拝し、信じ崇め奉る神に他ならぬ}
腕は、その身より這い出て。
次第に闇なる者もまた、苦悶に牙を剥く。
何が起きているのか。何故、喰らったこの者が出て来るのか。
己は、そうあれかしと望んだのではないのか。
{だが……、違う}
腹より這い出た剛掌が、闇の頭蓋を掌握する。
それが全力で引き込まれ、その者が己の臓腑へ喰らわれるのは間もないことだった。
オロチという天霊がその者の腹より這い出て、逆にそれを喰らうのはーーー……、間もないことだった。
{我が望み、あの方が応えてくれたのは……、力などではない}
闇の腕が、オロチの首根を掴む。
その眼は憎悪と憤怒の入り交じった、果てしなく醜悪なものだった。
我を裏切るのか、と。そう吐かんばかりに。
{失せよ半身}
その腕を、掴み。
{儂は、例え己を裏切ろうとも}
大地へと、叩き伏せた。
その衝撃は地星より塵煙を巻き上げ、漆黒の彼方にある光輝さえも滲ませる。
嘗てを遙かに凌駕した、神を喰らいし者の一撃。
{己の願いを裏切ることだけはせぬ}
最早、その身に迷いは無かった。
彼の者の願いにもまた、曇りなどあるはずはない。
その背に負いし信念、歪むこと、無し。
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