追憶の雨
幾千と降り注ぐ、海水と鮮血の雨。
その雨を受けて、バルドは口端を噛み締めていた。
自らの唇を噛み千切るほどに、噛み締めていた。
「…………」
懐かしい。何と、懐かしい雨だ。
嘗ての戦場で打たれた雨だ。指先から伝い、この身に染み渡る。
然れど少しだけ違った。それを弾いてくれる、仮面はない。
「……あぁ」
雨は、こんなにも冷たいものだったのか。
いいや、これは雨とも呼べぬものだけれど。
何とーーー……、冷たいのだろう。
「そうでしたね」
あの時も、降っていた。
空は綺麗なほどに星を照らしていたけれど。
確かに、振っていた。
「何をしている」
無愛想に、視線さえ向けず彼女は吐き捨てる。
バルドはそんな様子に苦笑を浮かべ、再び双腕へ槍を召喚する。
「いや、何でも」
ふと、しゃらりと鈴鳴りのような音がした。
それが錯覚だということは解っている。
バルドはその上で、噛み締めた唇を離し、苦笑を正す。
「行こうか」
彼等は再び疾駆する。
幾千の屍を超えて、悠然と広がる大海を背に。
その先へ、ただ、先へ。
{あ゛、ぅあ}
ふつり、と湧き出していた。
空に水地を形成し、佇む天霊の眼より泡沫が落ちる。
そして指先に渦巻く深潮へ、その泡沫は飲み込まれていった。
{……ご、ろず}
己の身に何かが広がっていくのが解る。
白紙に垂らされた墨のように、それが際限なく広がっていく。
いや、広がっているのではない。喰らっている。
染められた白が戻ることはもう無いのだろう。菌糸として、広がったそれが。
{ぇ゛、ぁははは}
やがて迫るそれに、誰がそれに気付こうか。
天霊の身に、吸い込まれていく。纏われていく。
幾千の泡沫が彼女の身に、だ。狂い荒ぶ波の弾末が、嵐に舞い挙げられた雨粒が。
{あ゛ははははは!!}
己の何かが染められていく。
だと言うのに、それを否定する何かが消えていく。
それでも良いと、肯定してくれる。
{バァ、ル、ドォォオオ…………!!}
やがて、その怨嗟はある男を捕らえる。
同時に天空からの視界故に、その様を瞳に映していた。
明らかに海面が低下している様を。
{ぃひっ}
やがて、船上の船員達も、当然カイリュウ自身も、気付く。
船の速度が明らかに落ちている。いや、船底が海砂との間に摩擦を起こしている。
カイリュウの海流操作でさえ、それを止めることは出来ない。いや、海流を読めるからこそ気付いてしまった。
「バルド、ファナ!! 何かおかしい!!」
その叫びが届くはずもなく。
彼等は疾駆する。空を、駆けていく。
ただ全ての海水が収束されていくその者に向かって、躊躇無く。
「声がっ……!」
カイリュウは喉を詰まらせる。
ヤバい。何かがヤバい。このままつっこませてはいけない。
しかし、声が、届かなーーー……。
「すぅーーー……っ」
彼の隣で、大きな呼吸音がした。
いや、呼吸と言うよりは風穴に空気が吸い込まれていくような。
それ程に膨大な、呼吸音。少なくともーーー……、獣人三人分の、全力の呼吸。
「「「止まれぇええええええええええええええええええええっっっ!!!」」」
超獣団の面々による絶叫、いや、咆吼。
残り少ない海面さえも弾き飛ばすかのような咆吼だった。
それは嵐風を斬り裂き、幾千の豪雨さえ貫いて、彼等の脳へ響く。
「ーーー……ッ!!」
ファナは火炎を一気に逆噴射し、その身が引き裂かれる程の衝撃受けつつも、一気に停止を掛けた。
故に、その瞬間気付く。何かがおかしいことに。
そして、己の側を一人の男が奔り抜けていくことに。
「何を」
言葉を掛ける刻など、なかった。
バルドは一切の躊躇無く、いや、その咆吼を耳にした上で疾駆を続けたのだ。
爪先に迷いはない。幾千と織束ねられた槍の上を、駆けていく。
「止まれッ!!」
ファナの叫びでさえ、彼は止まらない。
双腕に纏われた鉄槍が、ただ幾千の嵐雨を斬り裂いて。
空を、躙り、奔り。
{あ゛は}
水弾が、放たれる。
バルドは必然と言わんばかりにそれを左腕の鉄槍で弾く、が。
その瞬間、彼の片腕は弾け飛ぶように砕け散った。
腕という形式を保っているかどうかさえ、怪しい。皮膚の中で骨と肉、神経が液状になるまでかき混ぜられて。
それでもなお、彼は止まらない。依然として変わらぬ眼光は残る右腕を構えさせ、突貫させる。
{あ゛はははははははは!!}
再び、一撃。
海水や雨水を極限まで収束させた、高圧の水弾だ。
例え鋼鉄で防御した上でも余波で腕が腕でなくなるほどの威力を誇る、砲弾。
「それでも構わない」
彼の眼前で、その砲弾は幾億も生成され、燦々と撃ち放たれる。
降り注ぐ。周囲一帯全てを崩壊し尽くすように、降り注ぐ。
「少しだけ、刻も与えられた」
彼の眼前に召喚される、幾千の武具。
然れど水弾は剣を折り槍を砕き盾を裂き。
やがてその男の残る右腕にある鉄槍を弾き、飛ばして。
彼の頬に、一雫の雨粒が落ちる。
「……雨が」
彼の臓腑が、貫かれた。
その脇腹から肩先に掛けて、刳り抜かれたように。
臓腑の断面を鮮血に濡らすこともなく、墜ちて逝く。
「はは」
そうだ。嘗て、彼女に手を差し伸べた時も、そうだった。
轟々と燃え盛る邸宅を背に、泣きじゃくるあの子に手を差し伸べた時も。
あの子の頬には、雨粒のように、雫が伝っていた。
「……悪くない」
伸ばす手もなく消え逝く男を前に、ファナは不思議なほど冷静だった。
隙だ。あの男が突貫し、それに対し水弾を放ったことにより天霊には隙が出来ている。
恐ろしい程に整っていた。たった今から自分が魔力を収束し、あの天霊を殺す最大の一撃を放つことが出来る刹那が、整えられていたのだ。
「貴様」
全て、解っていたのだろう。
あの男は役廻の為に生き、役廻の為に死ぬ。
貫き通すことが大切だ、と。あの男はそう言っていた。
だから、それを体現しただけなのだろう。
「貴様という……、男は」
きっとあの男に後悔なんてものはない。
あの船中で述べた言葉だけが、彼にとって心残り全てだったのだと思う。
それ故に、あの男が何かを思い残すことはない。
今こうして墜ちて逝くことでさえ、本望なのだ。
「……馬鹿が」
彼女は魔力を収束する。
これは間違いなく最後の機会だ。自分達があの天霊を殺せる、唯一の機会。
故に彼女には迷い一つさえ無かった。ただ魔力を収束し、己の双腕に纏い。
そして、放つ。自身の後方へ。天霊とは正反対の、方角へ。
「馬鹿が……!!」
その砲撃によって彼女は飛空し、嘗てと同じようにバルドを抱え上げた。
最後の機会だった。嗚呼、間違いなくそうだったのだろう。
それでも彼女はそちらを選んだのだ。
理由などなく、ただ、その荒れ狂い、嘲笑う天霊を背に。
世界の救済よりも、ただーーー……。
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