彼方へ問いて
【???】
ぱちんっ、と。
泡沫が弾けるような音と共に、彼女はそこに顔面から着水する。
そう、あくまで着水だ。地面に薄く張られた、然れど深淵まで続く膜のようなその水面へと。
「あでぇっ!? ……くない?」
痛みは殆どない。いや、痛覚どころか嗅覚から感覚まで、全てがあやふやだ。
と言うよりは厚い何かに覆われて鈍くなっている、とでも言うべきか。
そう、それこそ夢のようにーーー……。
{覚えがあるのではないか}
彼女の隣にて、その者は杯に注がれた紅酒を嗜んでいた。
その味ではなく、色を見るように。果てに輝く太陽に照らすが如く。
神はただ高貴なる瓶と対の杯が置かれた机前に腰掛け、世界を眺めている。
「……夢の世界、ってトコですかね」
{そうだ。幾度かは来たはずだ。……尤も、ここは我の世界だが}
彼女は、スズカゼにはその顔に見覚えがある。
いいや、忘れるはずなどない。忘れて良いはずなどない。
その男の顔を、その男の姿を。そしてーーー……、否。
それだけは、無かった。彼の片腕は、肉の腕だった。
{……気になるか? この腕が}
「いえ……、区別が付いて良いですよ」
スズカゼは眉間の水滴を拭おうと肩先へデコを擦り付けるが、雫など一滴もありはしなかった。
いや、それどころか服は濡れていないし戦いで汚れ傷付いた身代も無傷になっている。
夢の世界とは言え、些か都合が良すぎるものだ。
「胸とか……」
{……願望を口にするのも良いが、まずは座ると良い}
舌打ちしつつも彼女は多少乱暴に椅子を引いて腰掛ける。
眼前にある空の杯が何を指し示すのは解ったが、それに手を付けることはなかった。
酒は好かないし、飲み干す性分でもない。それに、少なくとも今は飲むような気分でもない。
{まずは礼を言おうか。突然斬り掛かられては話も出来なかった}
「別に構いませんよ」
机上に肘を、頬に掌底を。
太々しく拗ねるように、彼女はそっぽを向く。
「勝てんでしょう、私じゃ」
その言葉を受け取るように、神は今一度杯を仰いだ。
否定はしない。故に、その行為は肯定の意味を持つ。
「で? その上で何の話をするために私を連れて来たんですか」
杯の紅色が空となり、真氷がからんと崩れ落ちた。
神は静かに、然れど何処か悲しそうな瞳で彼方を眺めつつ、僅かに吐息を零す。
その男の顔が浮かべるはずもない表情で、彼はやがて、瞼を伏せた。
{我は……、今からきっと、とても卑怯なことを言う。これは貴様という一人の人間の尊厳を踏み躙る言葉であり、無礼の極みであろう。その上で我はこれを言わねばならぬ}
杯が、机上へと置かれた。
そこへさらに紅酒が注がれることはない。
ただ、空の、虚空ばかりが。
{取引を……、しよう}
僅かに、湖面が揺らぐ。
静寂の静寂を保っていたはずの世界が、だ。
{スズカゼ・クレハ。貴様が我に体を譲るのであれば、この肉体の魂を甦らせ、貴様の愛した者達の魂と肉体を甦らせても良い。あの黒豹の獣人のように}
それだけではない。ただ世界全てを元に戻そう。
戦いで壊れ果てた物々を、死に果てた人々を、狂ってしまった歯車を。
望むのであれば、貴様の見ていた世界を今一度だけ見せても良い、と。
{……本来あるべき流れへ、戻す}
ただスズカゼ一人の犠牲によって、全てが成り立つのだ。
本来あるべき物だ。彼女の死により神が降臨し、誰もが世界の変革を前に佇むのだろう。
否、それよりも幸福である。誰も傷付かず、ただ自分が訪れる前の平穏だけが流れていく。
世界の、あるべき姿。
{仲間達が……、死んでいく。忠誠を近いし者、未来を夢見た者、闘争を望みし者。多くの者達が散って逝く}
私は死を悪だとは思わない。それは輪廻の区切りでしかないからだ、と。
しかし貴様等はそれを悪だと言う。人が死ねば嘆き悲しみ、家族が死ねば共に命を絶つ者すら居る。
私がこの世に降り立ってから見た死は、いつだって嘆き悲しまれてきた。
神は、ただそう呟きに続けて。
{貴様の死は、どうだ?}
彼の問いは、今一度。
嘗てのそれではない。ただこの渦中故に、意味がある。
あの時のように重さで潰れた彼女にではなく、確固たる意志を持つ彼女に問うからこそ、意味があるのだ。
「え? 嫌ですけど」
当然、こうなる。
{問おうか}
神の表情には安堵さえあった。
いや、それは安堵と言うよりも、満足に近い。
知っている。貴様がそういう存在だということは、知っている。
「私が貴方の器になりゃ、まぁ、そら世界は平和になりましょうよ。ゼルさんだけじゃない、ハドリーさんや他の皆だって生き返るし……、今まで辛い思いをしてきた人達だって、きっと幸せになる」
けれど、だけれど。
それは、つまり。
「その辛い思いの中に、あの人達の誇りがあったはずだ」
幾度も折れ、幾度も立ち上がり。
神が己を知るように、彼女もまたそれを知っている。
彼等の叫びを、彼等の背中を、彼等の信念を。
「私はそれを裏切らない」
折れることはない。
この先の道へ、歩むだけだ。
立ち上がることも、一人で出来るようになったのだから。
{……それでこそ、だ}
いつの間にか、杯は、否、机も椅子も、消え失せていた。
彼等は立つ。ただ静寂の水面にて、全てが彼方の世界にて。
紅蓮の刃と真銀の槍を手に、対峙する。
「つーか私にそうさせたのはアンタでしょうが。今更それ聞きます?」
{言ったろう? 卑怯だ、と}
微かに、微笑み。
微かに、笑って。
彼等はただ、戦乱の狂気の最中にて疾駆し。
世界に亀裂を走らせるほどの激突を、振るう。
読んでいただきありがとうございました
 




