弱者の刃
{……正直ね、舐めてたのよ}
震える腕に伝う、鮮血。
それ等は幾多もの生傷に染み込んでは、浅黒い焦膚を喰らって流れていく。
否、余りに冷ややかな汗にさえも、染み込んで。
{ぶっちゃけ雑魚だしさァ。羽虫風情かなとも思ってたんだけどね}
幾千の骨片がその血汗をなぞらせ、滴り。
どろりとしたヘドロのように先峰から雫となりて。
堕ちて、いく。
{……ここまでやるとは思わなかったわ}
そう述べる異貌の顔は、否、サラ・リリエントの顔は。
いつもの様ににこやかに、ただ微笑んでいた。
優しいーーー……、堕睡の朝のように、朗らかな微笑み。
「…………ッ!!」
隻腕が震える。刃片を握り締める掌が紅色が溢れてくる。
噛み締めた奥歯からは唾液に混じって、肉の欠片が落ちてくる。
その届くことのなかった腕の無念を、吐き捨てるように。
{これでも勢いを衰えさせなかったことは本当に感嘆するわ。えぇ、マジでヤバかったもの}
だが、刹那。
本当に秒と述べるにも到らないほどの刹那。
一瞬だけ、その鋒が鈍った。
{それが命取り}
にこやかな微笑みは頬から一筋の汗を流す。
確かに自分は戦闘型ではない。どちらかと言えば潜入や撹乱が主な役割だ。
だが、それでも戦力は他の天霊に劣りこそすれ、人間共には遙かに勝っているし、負けるとも思わない。
それでもなお、ここまで追い詰められたのはーーー……、偏にこの女の覚悟の強さだ。
[強欲]に歪んだとは敢えて言わない。この胸に開いた焦傷さえも、認めよう。
{……けどさ、アンタ達の勝ちを認めるつもりは}
毛頭ない、と。
その言葉と共にデイジーの腕を拘束する骨刃とは別の、背より放たれた幾千のそれ等が空を斬った。
音すらない。或いは金属音の、しゃらんと鳴るかのように、しなやかに。
全ての勝負を決す、一撃は。
「……いつから」
ふと、一瞬。
骨刃が止まる。
「お前はダリオ・タンターだったんだ……?」
最早、垂れる髪先に瞳を隠した女は静かに問う。
その声に感情はない。後悔だとか悲嘆だとか、若しくは憤怒だとか。
そんな物は一切なく、ただ零すように。
{……最初からよ}
サラ・リリエントという人間は存在しなかった。
或いはその形骸だけが残り、ただその場に窪みだけがあったのだ。
記憶も何もかも擬態出来るその女だからこそ、そこに収まることが出来た。
「そうか」
二人で食べた喫茶店ローティのマシューも。
二人で続けてきた長く辛い訓練も。
二人で護ってきたあの国も。
二人で、二人で、二人でーーー……。
「……そうか」
ただ一度、繰り返し。
彼女の眼は、髪先の狭間から、灯火を照らす。
否ーーー……、その眼孔に宿る、焔を。
「ジュニア」
巨龍が咆吼し、鱗翼にて豪風を斬り潰す。
突貫だ。その巨体を持って、デイジーを救出すると共に異貌を弾くつもりなのだろう。
確かにそうすれば再び戦況を引き戻せる。悪くない手だ、が。
それを幾度も赦す異貌ではない。
{甘ァいんだよォッッッ!!}
デイジーに振りかぶられていた幾千の骨刃が龍へと疾放する。
幾千の刃はこれまでに無い程の速度と硬度で翼を、脚を、首根を、そして巨大な身体を拘束。
一瞬にして龍は束縛の中に沈み、苦悶の呻きを上げる暇もなく全てを封印された。
例えその巨体を用いようと、その鋭尖の爪を持とうと、振り解けぬほどに。
{今度こそ終わりよ……、テメェ等、全部!!}
「あぁ、終わろう」
龍の口腔に装填されていく紅色の紅蓮。
だが、依然として変わらない。所詮その焔が状況を覆すことはない。
{そう何度も同じ手が通じるワケねェだろォ!!}
そうだ、覆すことはないのだ。
全ては下位へ引き下げるだけのこと。
ただ、その焔を吐き出す龍以外の全てを、だ。
「私は終わろうと言ったんだ」
龍の焔は、収束されていない。
広域へ噴き荒ぶもの。矮小な存在ならば、易く焼き尽くす焔。
そう、それが例え天霊であろうと、人間であろうとも。
{……ば}
天乱、空を覆い尽くす万灼の炎。
草々は燃え結ばれ大地は溶け墜ち、異貌の骨々は灰燼と化していく。
業火。そう形容することさえ生易しいほどの、猛焔。
骨肉全てが焦化するのも赦されず刹那に蒸発してしまう程の。
{馬鹿かテメェはァアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!}
攻撃ではない。この女は、最初から。
自分ごと全てを焼き尽くさせる為に、接触したのか。
真正面から、文字通り捨て身の覚悟で。
{テメェご、とッ……!!}
この女は、いったい、何処まで。
覚悟を決めてーーー……。
「私は知っている」
業火の中で、全てが焼き尽くされる中で。
ただ鈴音のようにその音が響いてくる。
余りに透き通り、余りに堅く、真っ直ぐな、決意が。
「決死など、私には足りぬことを」
幾千と繰り返してきた動作は、まだ。
振り切られてなどいない。
まだ、その刃は、彼女の手から離れてなどいない。
「だからこそ、私は前に進むんだ」
決死を背負った彼女は一度膝を折った。
けれどあの人は立ち上がり、再びその道を歩き出した。
貫き通すべきことが、成すべきことがあったから、歩き出せた。
「この信念と、刃を持って」
業火の中で、彼女は歩む。
焦げ果て、焼け爛れた肉を背負いながら。
然れどその双眸の焔絶やすことなく、腕掌の刃墜とすことなく。
幾千と繰り返してきた動作を、ただ一つの土台を。
今、此所に。
「ただ、前に」
異貌の慟哭。振り抜かれる刃。
それ等は違いなく女の首根を裂いた。裂けるはずだった。
何かがあった訳ではない。業火は依然変わらず彼女達を灼き、騎士は依然変わらず刃を振り抜いてくる。
あったとするのならば、それは、ただ偶然にもーーー……、彼女の隅にあった魔力が消えただけ。
獣達により漆黒の騎士の魔力が、消え失せただけ。
然れど、その刹那は、先刻のように。
勝敗を決すには、余りに充分でーーー……。
{……デュー}
その一言を幕引きに、頭蓋が、砕かれる。
異貌の脳骨に亀裂が走り、破片が飛び散った。
焔は天霊ごと焼き尽くし、その脳髄を、跡形もなく。
やがてはその姿さえも、黒燼の最中へ、消え失せて。
「きゅう!」
龍は僅かに否めくと共に焔を振り払い、その中へと突っ込んだ。
零れ落ちるのは全身を真っ黒に染め上げた一人の人間。
髪先は灼けて肌は黒ずみ、隻腕の指先には酷い火傷が出来ている。
それでもどうにか、針穴から通すようなそれではあったけれど、息はあった。
「…………きゅう」
龍は彼女を背中で受け止め、そのまま大地へと滑空する。
大翼で地上の粉塵を吹き飛ばして着地し、器用に翼を作ってデイジーをその場へと寝かせ込んだ。
だが、彼女はその事に礼を述べるでも返事をするでもなく、ただ蹲って、震えるだけ。
痛みや苦しみに、ではなく。
ただ、悔しさに。
「……ジュニア」
出来れば、という想いはある。
確かにサラは殺されていた。既に死んでいた。
けれどスズカゼと共に歩んできたのは、間違いなく、彼女だったのだ。
「私は、弱いなぁ……」
黒染を落とすように流れる、一筋の雫。
ただ後悔に、ただ無力に。
戦いが終われど、己への信念を貫き通そうとも。
弱者の隻腕に残る刃はーーー……、無い。
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