紅色に浮かぶ月
「全てを成さねばならん」
彼の、そんな言葉を覚えている。
まだ自分は矮小な存在であり、今ほどの力はなかった。
だからこそ、その言葉の意味を真に理解することはなかったし、実感することもなかった。
「解るか、デュー」
理解するには余りに時間が足りなかったのだ。
天霊は人間に比べて長命だ。四国大戦を経て今に到るまでの時間など些細事のようでしかない。
それ程に、短い。短すぎた。
短いとーーー……、感じてしまった。
「全てだ」
彼等にとってそれは余りに重いはずなのに。
自分にとっては一つの経過程度なのだろう、と。
所詮そういう認識だったのだろう。
甘かったーーー……、故に今このように追い詰められている。
足りぬ、足りぬのだ。未だ、認識が、覚悟が、どうしようもなく足りぬ。
{全て}
自身の、幾千という闇尾を超えて迫り来る対の獣。
一体は攻撃を受ける前に岩々を跳ね上げて、或いは抉りだして盾とし。
一体は攻撃を受ける云々以前に全ての軌道を読んで回避していく。
強い。一兵ならば瞬く前に消え失せようこの嵐の中を、平然と進んでくる。
まだ、足りぬ。認識がまだ。
この者共はーーー……、敵だ。
{全てぇえええええええええええええええええええッッ!!}
急速に、闇尾の弾道が変化した。
否、追うばかりであったそれ等が眼前を塞ぐようになったのだ。
的確と称すならば然りとも言えよう。
だが、それは何と述べるべきか、的確である以上に別の意味がある。
「ぅ、おッ……!?」
デモンの岩盤投擲による防御を一の闇尾で潰しながら、百の闇尾で迫る。
質量。文字通りに、一撃で全てを消し去る闇尾が幾千幾万と放たれるのだ。
回避だけでも非常に困難。擦り、僅かに動きを止めようものなら一瞬で喰らい尽くされるだろう。
「無駄に足掻いても格好悪いだけだぜ、オイ……!」
踏み込みにも似た脚突により、彼の頭上に幾千の岩壁が跳ね上がる。
一気に収束する闇尾は刹那にしてデモンを飲み込むが、彼は跳躍と共に岩壁を跳ね飛び、一気に上空へ飛翔した。
鳥々が翼を羽ばたかせる、空へ。旋風が巻き起こる、空へ。
「…………ハッ」
だが、それは所詮一時的な回避であり、結果的に言えば空中で身動きすら取れなくなっただけに等しい。
ただ襲い喰らわれるだけだ。その結果を待つだけ。
ただの、獣なら。
「真似してみっかァ。あぁ?」
空を、蹴る。
筋肉の圧縮と解放による僅かな運動。
だが、それは空に浮く彼に移動という手段を見せるには充分であり。
一瞬の隙を作るには、充分だった。
「何処見てんだ?」
頭上。眼球に影を作り。
その剛脚は振り下ろされる。一切の加減なく。
ただ全力でーーー……、己の突き刺した大剣に向かって。
「喰らうのは、俺だ」
脚撃が大剣を跳ね上げ、眼球は大きく二つに割れ、ない。
跳ね上げた瞬間、逆に割れたのはデモンの脚だった。
崩壊が来たのではなく、その大剣が滅消へと変化したのだ。
元より同じ存在から産まれたもの。滅消を貫くのならば、逆に再び喰らうのも然りということだ。
「く、が……ッ!」
踵から足裏に掛けて抉れて欠片は空を舞う。
共に全ての眼球が獣を捉え、大剣はずるりと中へ消えていった。
一瞬で、終わる。何かの認識が変わった、その一瞬で。
「……チッ」
笑みを孕んだ舌打ち。
指先の痙攣が最後の標となって、消えていく。
悪くない。終わり方としては、決して。
だが、まぁーーー……、まだ死ぬには早すぎる。
「ジェェエエエイドォオッッッ!!」
闇の中に、月は浮かぶ。
闇月。大地を紅色に塗らすそれは今、刃を紅色に染め。
暁が如く、紅月が如く、闇の中に煌めいて。
「充分だ、デモン・アグルス」
一閃を、放つ。
勿論、デューがそれを気に留めることはない。
無駄な足掻きだ。如何なる斬撃も攻撃も、今この身体には通じない。
ならばこの程度で、何を。
「暗殺者に二撃目はない」
悪寒。
闇尾が跳ね上がるような恐怖。
デュー・ラハンという存在、全ての感覚が一気に鋭敏となった。
空を舞う塵が見える、己の身に喰らわれる感覚さえ解る。
故に、気付いた。その一撃が己を殺したり得るということが。
気付かれて、しまった。
{ぁが、ああああああああああああああッッッッ!!!}
咆吼に近い、唸り声。
巨大な眼球の何かはその巨体を翻し、一気に身を後方へ押し倒した。
幾多の岩盤が抉り返り、爆風に巻き込まれて土煙が噴き上がる。
大地に轟く破砕の最中、ただ眼球は紅色に向けられていた。
駄目だ。この一撃だけは、駄目だ。全てを焼き尽くす紅色がある。
あの忌々しい女のような、紅色が。
{あ゛あ゛あ゛あ゛があああああッッッ!!}
それは最早回避などではない。ただの逃避だ。
だが、それでもジェイドの一閃から逃げ果せるには、余りに充分であり。
{ぁ}
逃げられる、はずだった。
感覚が鋭敏になっていたからこそ、ジェイドの一撃を避けられた。
だが、感覚が鋭敏になっていたからこそ、気付いてしまったのだ。
何と言うことはないーーー……、空から落ちてきた一枚の羽。
天高く舞う鳥の、墜羽。
「……因果だな、傲慢者」
紅蓮の閃光が天を駆ける。
弧となり、大地に業焔の紅を刻んで。
ただ、闇を斬り裂く月光となる。
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