獣は黒き焔にて
【山岳地帯】
{無様、とは敢えて言わないよ}
獣の片眼は潰れ、頬には亀裂が奔り欠片さえ墜ちていた。
肩先の肉は抉れている、訳ではない。頬と同じく欠けているのだ。
脇腹も等しく、太股も、爪先さえも。
最早、朽ちかけた彫刻のように。永く埋没していた陶器品のように。
その男は、滅びの淵に立っていた。
{滑稽とは言うけれどね}
それに対し、黒騎士ーーー……、闇炎を纏うその者。
天霊デュー・ラハン。首無き闇の焔を放つ馬に跨がりて。
彼は、[傲慢]はその籠腕に大剣を携える。
「……はっ、うるせぇよ」
強がろうとも、獣は四肢は項垂れさせ、牙を食い縛る力さえない。
腕から流れる黒血は渇き果て、僅かでも動く度に剥がれ墜ちていく。
それが上塗りされる事はなく。ただ、固まった、それだけが。
「……チッ」
流血さえも出なくなったか。
感覚がないのは耐えられたが、血液さえも枯れたとなれば流石に違和感が拭えない。
生きているのか死んでいるのか。骸か否か。
境界は、何処だ。
「……ケッ、ハッハッハ」
自然と嗤いが出る。
今までよりも余程生きているではないか。
この闘争の中で不要な思想などくそ喰らえだ。
必要なのは、闘争。この牙で喰らい爪で裂く闘争のみ。
「ケハハハハハハハッッッ!!」
疾駆。岩盤を抉り抜き、剛爪が空塵を斬り裂きデューへと向かう。
だが、その速度に鋭さはない。重圧を引き摺るように鈍重な、否。
それは最早疾駆とすら言えなかった。ただ岩盤を削る踏み込みを幾度も繰り返し、その鈍重を引き摺るように。
{滑稽と言ったでしょう?}
大剣の刃が、デモンを弾き倒す。
軽く薙いだだけだ。いや、振ったとさえ言えない。
弄躙。赤子を弄び躙るよりも容易く、獣は薙ぎ払われたのだ。
赤子ーーー……、いいや、赤子ならば如何ほど良かっただろう。未だ生きている、赤子ならば。
{お似合いの最期ですね。闘争に狩られた愚獣は闘争の中で惨めに死ぬ}
獣の脇腹が、燃える。
大剣によって薙がれた脇腹が黒炎に覆われ、肉を喰らわれて征く。
掌によって払おうとも炎が消えることはない。いや、それどころか掌にさえ燃え移るようなーーー……。
「うぜェ」
痛覚を感じない故に、ではない。
例え幾億と感覚が鋭敏であろうと、彼はそうしただろう。
脇腹の肉を炎ごと引き千切り、捨て去るということを。
「……ふん」
脇骨から臓腑が覗いている。いや、砕けた一部からは端み出てすらいる。
然れど獣は依然として鈍重な身代を止めることはない。
屍ならば肉体云々と述べる必要はあるまい。ただ、歩むのみ。
闘争だ。闘争を寄越せ。闘争を喰らわせろ。
死してなお、我が魂の渇きが、癒えることはない。
{滑稽な獣は滑稽なりに踊りますか}
大剣による連撃、連撃、連撃。
薙ぎ払い斬り伏せ叩き割り。ただ避けることも防ぐこともしない獣へ刃を重ねていく。
その度に衝撃は大地を裂き、轟音は空を掻き乱し、斬撃は獣を削っていった。
それでも、止まらない。止まるはずなどない。
獣は滅びの中へ進んでいく。疾駆、しているつもりなのだろう。
それでもなお赤子の歩み寄り遅い脚で、赤子のそれよりも脆い脚で。
歩み、傷付き、進み、崩れ、進み、綻び。
「ケ、カ、ハハハッ」
何と綺麗なのだろう。何と美しく、尊いのだろう。
鮮血が舞うことはない。己の拳は未だ届かない。
然れど闘争だ。今、自分は闘争の中に居る。
何時までも願ってやまなかった世界だ。俺が生きている証だ。
斬撃の軌跡がいつまで経っても消えない。
感覚を失ったはずの肉体が酷く軋む。
然れどそれ等全てを塗り潰すほどに尊い、悦楽。
「ケカハハハハッ!」
彼は嗤いながら。最早、皮膚とも呼べぬほどに色褪せ、軋轢の最中に砕け欠けた四肢を引き摺りって。
その黒騎士が前に、辿り着く。倒れるように、それを無理矢理支えるような足取りで、辿り着く。
辿り着いて、しまった。
{けれど、遊戯も舞台から出れば唾棄されるものだ}
デモンは悲鳴を上げることさえ出来ぬ肩を振るわせながら拳を振り翳す。
だが、それより早く、否、必然的にそれよりも疾く、大剣が彼の肩先を穿った。
肉が裂け、骨が砕け、既に破裂していた心臓さえも両断されて。
「ハハハハハハハハハッッッ!!!」
それでもなお獣は腕を振り翳すことを止めない。狂気染みた双眸から、光が退くことはない。
斬られた肩先にある拳を、斬断されたはずのその腕を。
吼えるように、牙を、突き立てるように。
ただ、その拳をーーー……。
{もう、貴方に魔力を使うことすら勿体ない}
焔が、灯る。
獣の肉を燃やしていく。否、内部から臓腑を、骨肉を。
嗚咽するように体内から溢れる黒炎。肉を抉って止めることなど、出来るはずもなく。
滑稽に燃え尽きる。眼孔から、口腔から、裂傷から焔を吹き出しながら。
{……訂正します}
膝から、崩れ落ち。
抉れ返った大地を象徴するように、その男は崩れ落ちた。
内部から猛る焔に、全身を喰らい尽くされながら。
{やはり、無様でもありましたよ}
それがデモン・アグルスの最期。彼という闘争の獣の最期。
ただひたすらに戦いを求めたーーー……、狂気の獣の、最期。
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