絶望の中にあるもの
【スノウフ国】
《大聖堂・礼拝堂》
「行くんデスか?」
その骸にほんの少しの別れを告げ、彼は立ち上がる。
いや、別れと言うには余りに寂しい。頬を一度だけ撫でるというだけのそれを、別れと呼んで良いのかどうかすらも定かではないけれど。
彼にとってはそれが確かに別れであって、最後の決意だったのだろう。
「……僕がすべき事は、解らなくなってしまった。酷く脆かったのだろうね。あんなに信じていたのに」
いつから、何処からかは解らない。
いいや、きっと解っているのだろうけれど。それを嘆く時間などない。
自分にはすべきことがあって、成すべき時があって。
「だから、僕は」
彼は、自身の言葉を打ち切るように顔を跳ね上げる。
ピクノもまた彼の行動に疑問符を浮かべるが如く首を傾げたが、数秒遅れてその異変に気付いた。
途轍もない悪寒。否、これは寒さか?
恐ろしいことに違いはない。幸福、とでも言うのだろうか。
己の心の底から歓喜するような物が湧き上がってくるのに、酷く寒くて、酷く冷たい。
こんな、こんな物が存在してーーー……。
「ピクノ」
だが、ダーテンが警戒しているのはそちらではなかった。
同時に大地を砕くような轟音が響き渡る。否、響き渡って来る。
遠くない。否、近過ぎる。領域へ既に片足を踏み込まれ、片手でこじ開けられているような感触さえも。
「ピクノ!!」
彼が叫び上げると共に凄まじい数の精霊[イングリアズ]達が大地を駆けだした。
ダーテンもまた精霊達やピクノよりも遙かに速い速度で床地を駆けて残骸を飛び越え、向かいの建築物へと駆け上がっていく。
そしてその空に近い場所から見えるのは、果てしなく異貌なる光景。
「こ、これは……」
数十秒遅れて精霊[イングリアズ]に抱えられて壁を上り、到着したピクノもまたその光景を目にする。
浸蝕される太陽。覆い尽くされていく大地。
天地が、喰われていく。世界が飲み込まれていく。
何かが来ている。余りに、恐ろしい何かが、来ている。
「道化師……? 違う、あれは」
何か、別の物だ。
その奇異な存在が雪崩れてくる。この世界を、この国を蝕もうと。
彼女が護ったこの国を、彼女が愛したこの国を、蝕もうと。
「守護結界を……ッ」
いや、出来ない。
自分は本来支援型だ。この国を守護する規模の結界を張るには相応の天霊達に力を借りて、数時間を要した上に漸く完成する。
今、あの雪崩を止めることは出来ない。いいや、防ぐことさえも。
「なら、聖堂騎士達は!」
彼等もまた、今はサウズ王国に居る。
この国に残った聖堂騎士達だけで国を護りきるのは不可能だろう。
いや、例え騎士達が居たとしてもーーー……。
「……ッ」
自分一人で、何処まで護り切れるだろう。
この国を、一度は見捨てようとしたこの国を。
自分という存在は、果たして護り切れることが、その資格があるのだろうか。
この手を振るい、天霊達の力を借りて、護る資格が、自分に。
「行くデス、私は」
そんな彼の隣を、ピクノはイングリアス達と共に歩んでいく。
怯えはない。華奢で小さな少女の手足が震えることはない。
覚悟があるから。託されたものがあるから。
「……怖くないのかい」
ふと、問うていた。
それを問われるべきは自分なのに。
いや、自分に問うべきだからこそ、問いたかったのかも知れない。
自信がないから? いいや、もっと、別の。
「私は託されたデス」
彼女の姿に。
その背中に、託されたものがあるから。
「託された物があって、託してくれた人が居て……、託される意味があるのなら」
いつも震えていた彼女が。
今はただ、その両脚で。真っ直ぐな眼差しで。
ただ、決意の元に。
「何も、怖くないデス」
ピクノでは、あの雪崩を止めることは出来ないだろう。
彼女のイングリアズ達は数こそあれど個の力が強い訳ではない。
きっと、あの雪崩と戦うことはーーー……。
「……それでも行くんだね」
この世界に、何があるべきなのだろう。
この崩れ逝く世界で、この全てを失った世界で。
自分は、ダーテン・クロイツという獣人は、何を求めるべきなのだろう。
「……いいや」
全てを失ってなどいない。
この掌にあるのは何だ。託された物が、あるはずだ。
この瞳にあるのは何だ。目を覚まさせてくれた人が、居たはずだ。
この背にあるのは何だ。押してくれた仲間が、待っているはずだ。
「だったら」
絶望の中に希望はある。
一筋の光は、ずっと隣に在った。
共に笑い、共に泣き、共に歩んできた光は、ずっと。
「僕は」
その光が脚を折り、膝を突いて。
ただこの掌に託し、瞳を覚まさせ、背を押してくれたのなら。
絶望の闇など、最早ありはしないのだ。
「征くよ」
四天災者[断罪]として生きるのではない。
聖堂騎士団長として生きるのではない。
ダーテン・クロイツとして。その魂を持つ者として。
皆が託してくれた者を持つ者として。
今、その場所へ。
「ピクノ」
「大丈夫デス。私は、私のやることをやるデスから」
イングリアズ達も応えるように、野太い声で頷きを返す。
護りきれるだろうか。いいや、現実的に見ればきっと無理だ。
それでも掌を閉じることはない。瞳を伏せることはない。背を翻すことはない。
絶望の中にある光を、希望を。捨てる事だけは、決してーーー……。
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