終焉の始まり
《住宅街》
「…………」
指先を軽く払うように曲げた、ユーシアの合図。
それは無言の巨漢に豪腕を振り下ろさせ、男ごと大地を破す。
否、男は蛇のようにその後右腕を駆け上がり、男の頭蓋へ的確な脚撃を撃ち込む。
が、踏み込みはない。あくまで顎先だけを蹴り飛ばす、意識のみを刈り取る一撃。
だが、巨漢はその程度で伏すことはない。微かに揺らぎこそすれど、剛脚は未だ大地を踏み付ける。
「撃て撃て撃て! ドルグノム殿に密着させるな!!」
的確な狙撃が男の四肢を狙うが、それ等一発とて彼に直撃することはない。
昆虫のようにその場から跳ね退き、周囲の家々の煉瓦に着壁しては飛躍、やがては城壁辺りを奔り抜けて、再び距離を取った。
その様を何と例えようか。少なくとも人間らしさがないことだけは確かだ。
「ドル、無事?」
「…………」
この程度ではと言うように顎先を擦りながら、ドルグノムは僅かに首を傾げてみせる。
彼の述べる、否、述べてはいないが、ユーシアもまた彼と同じ考えだ。
明らかに手加減されている。いや、手加減と言うよりは様子見に等しい。
「こっちから仕掛けなければ基本的に動かない。仕掛けたとしても一撃二撃、こっちの力を削ごうとするぐらい、ってね」
「…………」
「そう、明らかに時間を稼がれてるわ。まるで、何かを待っているようなーーー……」
直後、道化師は弾かれるように天を見上げる。
仮面に覆われた顔が何かを見ているのか、驚いているのか嗤っているのかさえ解りはしない、が。
少なくとも幾人か連られた騎士達が見た空には何も見えはしなかった。
尤もーーー……、狙撃手達や魔術師達のような、魔力を扱う者は、彼の行動の意味を理解せざるを得なかったのだが。
「……来た」
刹那。
道化師の周囲に幾多の結界が、紫透明の結界が展開される。
盾や封殺の為ではない。紛うことなき彼の為の足場として、だ。
「ドル!!」
ユーシアの叫びが早いか、ドルグノムの突貫が早いか。
剛脚に駆けられる巨漢が豪風すら巻き込んで結界を突き破る、が。
微かに靴底を削るだけでドルグノムが道化師を捕らえはしなかった。
彼はそのまま勢い余って壁面に突撃して粉塵を巻き上げることとなる。
「舐めんじゃあないよ」
だが、だ。
その粉塵より髪を靡かせ、肩先で黄煙を切り裂き。
彼女は道化師より僅かに高く、姿を現した。
「何処に行くつもりかしら?」
ドルグノムの肩を足場に跳躍したユーシアの脚撃は、確かに道化師を捕らえた。
如何なる剛首であろうと跳ね飛ばす処断の鎌が如き、脚撃は。
確かに捕らえた、はずだった。
「……邪魔だ」
ユーシアの四肢を、その身体さえ覆う紫透明の結界。
一つ一つの大きさは大したことはない。然れどそれ故に、まるで鎖が如く。
彼女の肉体は動きを封じて殺され、指先のみしか動かすことは出来ずに、大地へと落ちていった。
「ユーシア殿ッ!!」
騎士達が叫び、彼女の落下地点へ疾駆する、が。僅かに間に合わない。
後ほんの少し腕を伸ばせば、ただ一歩踏み出すのが早ければ。
届くと言うのに。
「…………む」
そんな彼等の顔面が引っ張られるように、突風が荒れ狂う。
思わず足を止めてしまった騎士達の眼前からユーシアは消え去っていた。
いや、正しく言えばその遙か後方にて巨漢の男が、ユーシアを抱えているのだが。
「ありがと。助かったわ、ドル。流石は私の自慢の夫ね」
「…………」
僅かに頬端を赤くして照れながら、無言の大男は俯いた。
妻もそんな姿に微笑みながら、消え失せた結界の感触を払い除けるように腕を二度、三度と動かせてみせる。
異常はない。いや、どうして異常がないのか。
「……何者なの?」
彼女の疑問に応えるべき者の姿は既にない。
ただ肌先を湧き立たせるような悪寒があるばかり。
何が起こっている。何が起ころうとしている。
今、この世界で、いったい何がーーー……。
《城壁上》
「お二人とも! アレを!!」
一方、サウズに残された城壁の上から国外の戦況を観察していた騎士は、ナーゾル国王にメメールにそう叫んでいた。
他の騎士達は響めいており、中にはそれを見て気分を悪くしたのか、城壁下へ嘔吐している者も居る。
ナーゾル国王とメメールはそんな者達を見て息を呑みながら、恐る恐るそれを見上げーーー……、絶句した。
「……何だ、これは」
端的に言えば、太陽が二つある。
否、日食。太陽が、喰われているのだ。
晴天の中で、その光さえ失っていないと言うのに。
太陽が、欠けている。
「日食は凶兆とされてきましたが……、いよいよ、と言ったところですか」
「だが、この悍ましさはいったい……」
そう呟く彼等の不安を掻き立てるが如く、大地が咆吼する。
否、違う。大地が喚き立てているのではない。
その濁白のように蠢く大地が、濁っているのでは。
「…………馬鹿な」
最早誰もが言葉を失った。
それは道化師。否、似ているが僅かに違う、何か。
城壁下のスノウフ聖堂騎士達さえも悲鳴を上げ、ただ、その蠢く何かから逃げ惑う。
最早それは地獄だった。この世の光景とは思えぬ、終焉の景色。
「これが、現実だと言うのか……?」
彼等は呆然と立ち尽くし、眼下の者共は逃げ惑い。
誰もが言葉を失わざるを得ない、悲鳴を上げざるを得ない世界がそこにはあった。
この世の終焉が、光失わぬ終焉が、今、此所にーーー……。
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