影を超えて
【サウズ王国】
《城壁外郭》
「……ッ!」
なぶり殺し。
その場に居た誰もが、脳裏にその言葉を思い浮かべる。
スノウフ聖堂騎士による幾千の銃口、幾千の刃が向けられた中で、彼等は圧倒的な存在と戦っていた。
いや、戦っているというのは正しくない。それは、なぶり殺しなのだから。
{必然です}
スノウフ聖堂騎士によって作られた円陣の最中で、彼は逃げ惑う。
嵐の中に降り注ぐ風雨のように放たれる影から。
一発でも受ければ四肢の一本をもがれるであろう、それから。
{貴方達が私に勝てる道理など、ありはしない}
刹那、彼、ニルヴァーの首根に迫る影刃。
幾千幾多を避けながらも、ほんの僅かな取り零し。
しかしその取り零し一つに四肢一本でも取られれば、一瞬で全てが詰む。
ただの一度薙ぎ倒されれば貪られるのだ。その風雨は、万物を一切の容赦なくを斬り刻む。
「させない!!」
だが、その影刃を弾く一撃があった。
確かな位置からの狙撃。周囲のスノウフ聖堂騎士から狙いを定められぬよう疾駆しながらも、正確無比な狙撃を行えるのは一人しか居ない。
フレース・ベルグーン。ニルヴァーの妻であり、同じく[八咫烏]である彼女しか。
「ニルヴァー! 大丈っ……」
だが、そんな彼女でさえ風雨の中では雑多に過ぎない。
言葉も終わらぬ内に彼女の足下へ迫る、影の刃。
それは重力を斬り裂くように風音すら起こさぬ、影が。
「……あ」
気付けば影の刃は逸れていた。
自身の首脇に一筋の鮮血が伝いながらも、彼女は影を弾いた刃が大地に刺さるのを目撃する。
これは間違いなくニルヴァーのナイフだ。彼がナイフを投擲して、助けてくれたのだろう。
助けてくれた、のに。
「…………」
ニルヴァーが何かを述べることはない。
大丈夫か、無事か。気を付けろとさえ、言いはしない。
ただフレースの無事を黒眼鏡の底で確認すれば、そのまま風雨の回避へ戻る。
黒布に覆い隠された顔の下一つ、見せることはなく。
「ニルヴァー……」
その名を呼べど、やはり応えは返って来ない。
彼は本当にニルヴァーなのか。自分の夫、ニルヴァー・ベルグーンなのか。
ふつりふつりと湧き上がる。既に芽生えていた猜疑が、ふつりふつりと。
信じたいという気持ちはある。彼の持つ雰囲気は間違いなくニルヴァーの物だ。
しかし何かが違う。何か、何処か違う。
その何かが、何処かが解らない。解っているはずなのに、解りたくない。
もうあの人が何処かへ行ってしまうと、思いたくないーーー……。
「…………」
そんな彼女に視線さえくれず、ニルヴァーは疾駆してた。
迫り来る影を脚撃で払い、刃で往なし、跳躍で超え、疾駆で避ける。
確実に、ヌエとの距離を縮めていく。最早、有象無象の壁共を意識することさえなく。
眼前の女に向かって、その、刃を。
{……よく、この影を超えて来られたものです}
大地を蹴り飛ばし、砂地を抉って、斜角。
回避に見せかけた突貫がヌエの眼前、風圧を感じられる場まで迫る。
最早影による防御は間に合わない。回避もまた、させるはずもない。
ニルヴァーは最短の角度、最速の速度にして、彼女の首根を、斬り。
{尤も、あの時と同様と思われるのは遺憾ですが}
裂かない。
否、自分は何をしている? 此所は何処で、自分は誰だ?
今、自分は何をしようとしていた? 眼前の女を殺そうと?
何故? この女は何だ。いったい何物だ? 敵か? 敵ならば、自分はどうして戦ってーーー……。
「…………ッ!!」
数秒にも満たぬ思案の後、彼は全力で後退した、が。
その数秒未満をヌエが逃すはずはない。彼女は防御の影を展開すると共に、幾千の風雨をニルヴァーへと浴びせ掛ける。
初撃は避けた、二撃目は往なし、三撃目は弾いて、四撃目は擦り。
五撃目は、己の臓腑を貫いた。
「ぁ、が」
その一撃で、終結。
捕らえた男の肉体を、四肢端から影が喰らい、飲み込んでいく。
指先が砕け、肘が捻曲がり、肩が折り畳まれ。
やがて臓腑さえも、磨り、潰されて。
「恐ろしいものですね。彼女は」
全能者はその戦いを眺めながら、にこやかに微笑んだ。
蛹の状態で既にこれ程とは。流石は三賢者達の懐刀と言ったところか。
いや、ある意味では彼等より恐ろしいかも知れない。
絶対的な力ではなくーーー……、逃げ場なく迫る恐ろしさがある。
「一時的とは言え記憶操作までも発現……、いえ、これは彼女元来の物ですか」
本来、彼女には名などなかった。
ただの天霊の集合体。謂わば突然変異のような、複数の天霊が融合して産まれた存在だったのだ。
故に彼女に名前などはなく、その姿に形はなかった。
だが、それを与えたのは他ならぬオロチ達であり、その名を与えたのはユキバだ。
「確か彼の世界における、複数の生物が融合した者の名前でしたか」
万物を裂く影、一時的な記憶操作による認証改竄。
万能、とまでは言うまい。付け入る隙はあるし、それを見つけるのは難しくないだろう。
あの男なら、ニルヴァー・ベルグーンならそう難しいことではないはずだ。
尤も、その時まで生きていればーーー……、だが。
「……そして、彼女は未だ、蛹」
蛹でさえ、その姿は彼等を伏す。
もし蛹から孵ったなら、果たしてその羽はどれ程の人々を魅了するのだろう。
[色欲]。生命の象徴である彼女は、どれ程ーーー……。
「……楽しみですねぇ」
ただ、にこやかに彼は微笑む。
幾多のスノウフ聖堂騎士達がその惨状に眉根を歪ませ、口端を引き下げ。
或いは悲鳴を上げながら嘔吐する者さえ居る中で。
一人の女が必死にその名を呼ぶ中で。
彼はただ、微笑んでいた。
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