彼は嘘の中で生きて
「…………」
真っ暗な世界の中で、彼は空を見上げていた。
四肢は動かない。指先の感触はなく、頬に伝うのは嗄れた感触ばかり。
今、自分はどうなっているのだろう。立っているのか、座っているのか。
表情さえも、理解出来ない。否、自分が見ている景色は本当の現実の物かどうかさえも。
「俺は……」
どうすべきなのだろう。
今、瞳を開いて空へ向かうべきなのか。
それとも彼の願いを受け入れ、叶えてやるべきなのか。
自分は奴をどうすべきなのだろう。救ってやるべきなのか。
だが、奴にとって救いとは死だ。殺されることこそ、奴の望む救いなのだ。
「……どうして、嘘などと」
お前が築き上げていた物は本物のはずだろう。
だからこそ俺達は同じギルドの仲間として競い合ったし、俺は仲間と共に世界の真実を知るに到った。
フォッカはお前のことを褒めていた。アイツが居るから俺は安心して暴れられる、と。
ハーゲンはお前のことを信じていた。アイツが居るお陰で俺達はやっていけるのだ、と。
どうしてそれを嘘などと卑下するのだ。お前は、どうしてそれ等を、奴等を、信じてやれない。
グラーシャ。お前は、どうしてーーー……。
「……約束、したものな」
瞳を、開く。
漆黒の空が退き、見えるのは空塵さえ止まった世界。
そして砂漠で枯れ果てた骸のように皺細った、指先。
「俺は、約束したんだ……」
クロセールは立ち上がる。
脚が軋み、腰が曲がる。背骨が折れてしまったのかと錯覚するほど視線が低い。
それでも、立っている。この嗄れた腕が垂れようと、苦悶の声が口端から落ちようとも。
今、立って、双眸は歪むことなく眼前を見ている。
立っているのだーーー……、俺は。
「驚いたよ。その状態でたった人は初めてだから」
彼は、グラーシャは世界に居た。
歩んでくる。未だ、時の止まった世界で。
この世界が影響するのは人間だけなのか、それともグラーシャがそう操作しているのかは定かではないが、時間が極度に促進されているのは人体だけらしい。
煤染みた壁や足下に転がる人形共はそのままで、床面を濡らす鮮血は塵となって空へ浮き、そのまま埃々と共に停止していた。
「ならば、初めての終わりも味わってみろ」
氷塊、ではない。
それは正しく弾丸。より一瞬、停止の狭間さえ与えぬ速度を出す為の一撃。
全身を捻るように投擲するそれはクロセールが誇る最速の一撃、だが。
「ぁ、が」
端的に言えば、骨粗。
肉体的に老化したクロセールでは、その一撃に耐えられなかったのだ。
否、耐えられなかっただけではない。肉の節々が千切れ、骨が砕け、それ等の破片共が臓腑を切り裂いていく。
肉体という器の中で、破片という幾千の刃が掻き回されて、刻まれていく。
「……立ち上がっただけでも立派なものさ」
転げるように倒れたクロセールの視界の端、そこには彼が召喚したはずの氷弾が、ない。
人体だけではないのだ。この世界の、この空間の中で、グラーシャは自在に時間を操っている。
そう、正確には氷弾は消え失せたのではなく、溶け、水となって蒸発しただけのこと。
たった数秒の内に、水質としての生命を終わらせただけのこと。
「解るだろう? クロセール。この空間において、最早全ての時間は僕の掌だ。思うままに、進めることも戻すことも止めることも、遅らせることでさえ、全て思い通りなんだよ」
グラーシャは足下の、階段から崩れ落ちたであろう木材を手にとって見せる。
何の変哲もない、強いて言うならば人形共の爆炎により煤けた木材。
然れど、その何の変哲もないはずの木材は、彼の手の中で一瞬にして消え失せた。
氷のように塵になったかと問われればそうではない。ただの、小種と成り果てたのである。
次の瞬間には苗木、小枝となって、やがて華を咲かせて枯れていく。
彼は塵となったそれ等を指先で弄びながら、間もなく掌を大地に向けて、捨て去った。
「全部、思い通りだ」
この世界に嘘はない。全てが真実の姿を晒け出す。
何かを隠すことなく、全てが老いて、全てが死んでいく。
ただ骸という、隠しようのない真実だけが、この世界をーーー……。
「……たった一つ」
グラーシャは踵を返し、掌を後方へ向ける。
直後、日差しを照らす窓硝子が砕き割られ、老父の杖鋒がグラーシャの眼球を捉える。
否、捉えてはいない。薄皮一枚、網膜一瞬、停止している。
破片一つさえも、老父が自由になることはなく。
「貴方を除いて」
刹那、杖先が見えぬ重圧に圧迫されたかのようにひん曲がり、否、砕け、廃化し、塵、去って。
老父の腕さえも、肩さえも、その肉体さえも、全てが。
苦悶に歪みながら、消えていく。
「これで」
その感触に嘘はない。
肉が老い果て、骨が枯れ果て、血が消え果てて。
消える感触だ。消えていく感触だ。
嘗てこの手が感じた、間違えようのない、感触。
「僕は自由だ!」
歓喜の声。
鮮血の歌。
「……えぁ?」
グラーシャの臓腑を貫くのは、杖。
琥珀ではなく、一本の杖。
「あれ? え?」
彼は困惑するように胸元を弄りながら、潰れていく臓腑の感触を受ける。
何故? たった今、眼前で、確かな感触と共に消え去ったはずだ。
感触を違えるはずはない。幻術などを喰らうはずはない。この肉体の中は外とは時間の流れが違うのだから。
ならば、何故、どうして、どうやって。
「すまぬ、な」
老父はそう述べると共に、何の躊躇もなく杖を引き抜いた。
彼の細められた眼球の先にあるのは、自身と同じ姿の人間。
否、光の屈折によってそう見えるだけの、忠臣の姿。
「すまぬ」
世界は戻っていく。本来在るべき姿へと。
何も変わりはしないのだ。何も変わるはずなどないのだ。
嘘が暴かれ、在るべき物が真実に戻っただけ。
数年前の嘘が暴かれて、真実のあるべき姿になっただけのこと。
「……ヴォーサゴ老、貴方は」
「人形共が急に動きを止めたのでな。倅の血筋故に抵抗も容易じゃった」
「ヴォーサゴ老!!」
平然と話を進める老父に対し、未だ這いつくばったクロセールは叫びを上げた。
忠臣を犠牲にし、息子を殺し。それでもこの老父は、何も思わないのか。
全ては必然だったと言わんばかりに、全てがそう在るべきだったのだと言わんばかりに。
背を、向けるだけなのか。
「……儂はな、クロセール」
嗄れ、震える腕を戻しながら。
老父はただ、踵を返しーーー……。
「まだ貴方は」
刹那。
否、永劫。
老父の背後より、彼は。
「僕を縛るのか」
臓腑より流血し、その眼から黒灰にも等しき血涙を流して。
未だ死すことなき、否、死より蘇りし、嘘に縛られた者は。
老父へと、その凶刃を振り下ろす。
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