操刻者が操れなかったもの
「ぁ、ぁ……」
グラーシャ・ソームンの一番古い記憶は母親の手に引かれた日のこと。
いや、正しく言えばその手を引いていたのは自分だ。
嗄れ果て、最早骸と成り果てた母親の手を引いていたのは、自分だった。
懐古の記憶、一つ目。赤子や老い果てた者共が蠢く街の中で、ただ一人泣いていた記憶。
昔の話。それから数年、自分がギルドに行くまで次の記憶はないけれど。
それが最も古い記憶であるのは、間違いない。
「魔力の暴走だ。……最悪の形で、な」
その男、ギルドでも重役の席に着いていたラーヴァナ・イブリースは眉間を覆っていた。
彼の見回す小さな執務室には無駄な装飾がなく、精々地図が広げられて壁に貼られていたり、チェス盤が机の端に置かれていたり、と。
とても貧素な物だがーーー……、その中心、ラーヴァナの眼前に立つ男は異色を放っていた。
別段、豪華絢爛な物を身につけている訳ではない。その者の持つ雰囲気が、周囲と隔絶しているだけのこと。
「街一つ、だ。ヴォーサゴ。……街一つだぞ」
ラーヴァナの言葉に、男は、ヴォーサゴは深く口端を結ぶ。
否、それは何も述べないと言う意志を示すという事よりも、何かをを言うべきではないという意志にさえ、見える。
「幸運なのは生き残りが、いや、その記憶を残せた物が居なかった、ということか」
「……妻は」
「唯一の死亡者だ。いや、今もなお死亡者は増えているがな」
盤上より駒を退け、ラーヴァナは掌で顔を覆い尽くす。
ギルドにとってヴォーサゴは重要な人物だ。いや、グラーシャもこれから重要な人物となっていくだろう。
所詮一つの事件と割り切ればそれで良い。ヴォーサゴの妻が、その故郷に子供を連れて行った時に起こった事故なのだ、と。
割り切れば、割り切ることが出来るのならば、それで。
「此度の事件に関しては私が全力で隠蔽しよう。ギルド長にも知らせん」
「……止めろ、ラーヴァナ。今は何かと厄介な時期だ。あの若造、ヴォルグとかいう男に手を出すような行為をすべきではなかろう。奴が何者かは解らぬが、とても奇妙な奴だ」
「解っている、が。我が右腕を失う方が痛手になる。長の地位ぐらいくれてやろう。後で奪い返せば良い」
結果、ラーヴァナはその事をその一件を隠蔽することで補佐の地位まで落ちることとなる。
或いはこのままであれば、ソームン親子は何の諍いもなく余生を過ごしただろう。
ただ一度の事故という、ほんの小さな傷を負ったまま、過ごしていったのだろう。
「よっ! 最近来てなかったじゃねーか!」
「あ、おい、グラーシャ! なぁ、聞いてくれよ。俺髪の毛が結構硬くてさぁ! もう坊主とかにしちまおうかなってさぁ!!」
グラーシャはただ彼等の笑顔の前に立ち尽くす。
名前は知っている。父が、お前の友人になる者達だ、と教えてくれた。
フォッカとハーゲン。彼等はとても気の良い奴等だったし、獣人がどうとかも気にしない人達だった。
けれど、恐ろしい。どうしようもなく怖い。
彼等に会うのは、今日が初めてだと言うのに。
「……父さんが、やったの?」
その日の夜、執務室に籠もる父に彼は問うた。
初めて会った、言葉でしか知らなかった友人達が、幼馴染みのように話しかけてくる。
自分しか知らない想い出を、知るはずもない想い出を当然のように話してくるのだ。
それは、余りに、余りに。
「何の、不足がある」
綺麗事で言えば、不器用な男が成した精一杯の思いやり。
だが己の母を殺した少年からすれば、世界に拒絶された様に思えたのだ。
鳥籠の中に入り、用意された玩具で遊べ、と。貴様に自由などないぞ、と。
父から、そう吐き捨てられたように思えたのだ。
「怖い」
鳥籠の中で少年は何を思うのだろう。
例え偽物の記憶でも友と仲は良かったし、自分で築き上げた関係性もあった。
父と袂を分かった後の日々に自分が出会い、過ごした人々も少なくない。
それは幸せ、だったのだろう。必ずしも楽しかったり気持ち良かったりはしなかったけれど、確かに自分が築き上げた幸福の日々。
ーーー……本当に、自分が?
「怖い……っ」
これが偽物でない確証が何処にある。
彼等が突然に全てを知り、自分から離れない理由が何処にある。
何なのだ、自分はいったい何なのだ? ただの虚ろではないか。傀儡が如き人形ではないか。
自分に本当などありはしない。あるのはただ、嘘を恐れる恐怖だけ。
「僕には、何も……!」
彼は渇望する。闇の中で、己の物をと藻掻き、足掻く。
自分にある物は何だ? 全てが嘘かも知れないこの世界で、自分に残された物は。
自分は何だ、自分は何なのだ、自分は何であるべきなのだ。
自分は、自分は、自分はーーー……。
「……生きるべきではなかった」
あの日、母の手を握るべきではなかった。
こんな思いをするぐらいなら、死ぬべきだったのだ。
「どうして、殺してくれなかったんだ」
唯一、彼に赦された感情。
それは憤怒。自分を殺さなかった。自分を殺してくれなかった世界への憤怒。
故に渇望する。彼は虚ろの世界を望む。自分だけの世界を、創り出して。
「殺してくれ」
誰にも望まれず、誰が望むことも出来ず。
優しい故に誰も彼を殺さず、力故に殺せず。
彼はただ憎悪する。この世界へ、憤怒するばかり。
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