極限の減速
【ギルド地区】
《ギルド本部・跡地》
「どう、なっている……!」
クロセールは片腕をぶら下げ、腹部から鮮血の導べを垂らしていた。
苦痛が肩筋から昇り、首根を引き締める。
一瞬、と称すのは間違いか? 否、アレは確かに一瞬だった。
一瞬にして永劫。刹那にして永続。
あの男は、グラーシャは、いったい、何を行ったのだ?
否、何処まで、到ったと言うのだ。
「とても、気分が良い」
空塵に指先を擬え、彼は微笑みように頬端を緩めた。
塵々が、否、空素でさえも彼によって掌握される。
グラーシャが展開している空間は、そういう物なのだ。
減速。停止ではなく減速。自己の世界を極限まで減速させる、空間。
「停止ではないから、君の琥珀も僕を止めることは出来ない。君が僕の世界に干渉出来ることはもう無いよ、クロセール」
クロセールは琥珀の弾丸を展開する。
氷結が周囲に煌めきと冷露を生み出す、が。グラーシャが狼狽えることはない。
最早彼にとって全ては、路端に転がる人形共も、煤け砕けた壁さえも、クロセールでさえ障害たり得ない。
彼の周囲は限り無く遅延している。停止ではなく、遅延。
「全てが見えるんだ。空気の流れも、弾丸の軌道さえも……」
彼の言葉が終わるまでもなく、幾多の琥珀が発射される。
煌めきの中で一閃を描く弾丸。琥珀色は世界を氷結に染め上げる、が。
「終わり、さえも」
音は、ない。
震動も、変化さえも。
ただ必然。その琥珀は減速しただけ。
極限の減速。それは最早停止に等しく、然れど異なり。
琥珀がグラーシャに届く事は、永遠にない。
「だがその場にあるのなら」
クロセールは次弾を装填、発射。
装填、発射。装填、発射。装填、発射。
全く同じ軌道で、全く同じ力で、全く同じ物を。
「届かないことはない……!」
例え減速、遅延していようと存在が消えることはない。
彼の周囲にその空間が展開しているのなら、空間の領域が決まっているのなら。
押し込めば良いのだ。釘を打つように、一つ分ずつ、押し込めば。
いつしか、それは必ず届く。
「当然、その程度は織り込み済みだよ」
するり、と。
結び目の無い糸を引き抜くかのように、するり、と。
弾丸は彼の脇を通り抜けて、壁面を破して粉塵の中へ消えていく。
一度は停止した弾丸だ。その軌道を読むのは無論、容易い。
「だろうなーーー……。お前はそうするはずだ」
追撃は、ない。
あるのは通過したはずの、壁に激突し意味を失ったはずの弾丸から放たれる強振。
鼓膜を切り裂くように甲高く、脳髄を揺さ振るように強い、震動。
「そして俺が解除した隙に撃ち込むと思う。あぁ、ならばその通り、そうさせて貰おう……!」
刹那、爆音。
溜めて溜めて溜めて溜め尽くした爆弾が、爆ぜるように。
全てを解放するように、爆音。
「ただし放つのは俺ではないが、な」
眼前、それは正しく眼球の寸前だった。
恐らく意識下、秒にすら及ばぬ次元で遅れていれば片目を失っていただろう。
何ということはない。彼の放った琥珀は弾丸ではなく、いや、弾丸でありながら炸裂する爆弾でもあったという事だ。
「……凄いね、クロセール」
瓦礫を退けながら、グラーシャは拍手なき称賛を送る。
この状況でも冷静に自体を分析して、有効な手段を打ってきた。
相手の行動や周囲の物質までも計算に含め、自身が成すべき事を出来る。
何と素晴らしい逸材だろう。何と素晴らしい存在だろう。
そして自分はそれがどうしようもなく、恨めしい。
「そんなに、凄いのなら」
クロセールの指先が、痺れる。
否、鈍い。違う、動かない。
停止? いつ? そんな動作はなかったはず。
だが停止している。意識のみが残されて、停止している。
違うーーー……、これはグラーシャの魔法ではない。
彼が意図して放った魔法、ではない。
「どうしてあの時、助けてくれなかったんだ」
その言葉は彼自身に向けられた物ではない。
いや、或いは誰に向けられた物でもなく、誰しもに向けられた物なのだろう。
グラーシャ・ソームン。彼は復讐鬼だ。その憎悪に心身を燃やす[憤怒]だ。
そして同時に、何処までも無力なーーー……、殺人鬼でもある。
「誰も、誰も、誰も」
暴走。彼は平然とした表情のまま、独り言でも呟くように暴走している。
感情により昂ぶった魔力を制御出来ていない。ただでさえ事象干渉という高次元の魔法を使っているというのに、集中力など欠けば、どうなるか。
「……ッ!」
クロセールは気付く。
己の指先が、まるで老人のように嗄れていることに。
だが数秒もすればいつものように戻り、かと思えば赤子のように瑞々しく潤っていく。
今はまだ指先だけだろう。だが、今暫しもすれば、これは全身まで広がり。
肉体がその負荷に付いていけず、衰死する。
「グラー……シャ…………ッ!」
自身の周囲に展開した氷結を解除し、体内へ収束循環させながら。
彼は全身の力を振り絞って脚を、腕を、牙を動かそうとする。
だが、それは強固や強靱といった次元の拘束ではない。
そも、動くことさえもその世界では有り得ぬことなのだ。
「どうして、どうして、どうしてーーー……」
何人も赦されぬ空間に響くのは、慟哭。
獣のそれよりも遙かに悍ましき唸り声。
「誰も」
世界は停止する。
少なくとも、ギルド本部の館全てが、停止する。
空を流れる雲も、優雅に飛び去る鳥達も、道を這う蟻でさえも。
全てが停止する。その意識のみを残して、全てが、ただ、彼の世界に取り込まれてーーー……。
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