白き煙は蒼にたゆたう
バルドの頬端を拳撃が駆け抜ける。
薄皮一枚分の回避。否、然れど衝撃は頬の肉を抉り取っていく。
激痛は口腔から喉を掻き鳴らすような轟音となりて全身を穿つ、が。
仮面がその程度で、例え臓腑が衝撃に悲鳴を上げようとも、止まるはずなどなく。
「この程度の欺騙で」
だが、そう呟いたバルドの槍もまた老父の豪腕をするのみ。
否、正しく言えば小指から肘上を削る斬線だったが、スモークの僅かな逸らしによって弾かれたのである。
「この程度で、何じゃ?」
「さぁ、何でしょう」
刹那、スモークの側頭部に浮かぶ魔方陣。
それが弾いた槍の鋒から放たれた物であり。
一重ではなく幾千幾百にも重ねられた物であると、理解する頃には既に。
己の皮膚先を、白銀の刃が斬り裂いていた。
「解放。そして」
回避した先にある白刃より放たれる魔方陣。
それ等は連なる蛇の肉身が如くスモークを取り囲み、やがて彼を多う繭となる。
否、茨の園とでも称すべきか。
「封緘せし白銀」
槍、剣、鉈、斧、棍。
様々な武器が一瞬で老父を貫き、四肢を抉り裂いて。
骨肉を砕き、臓腑を裂き、血管を引き千切り。
やがて、全ては。
「……!」
幻影だと、気付く。
「何だと問うたが」
全て。
自身が槍の鋒から魔方陣を放った時から既に。
老父は老父ではなく、ただ蒼鱗をたゆたう白煙であり。
「何でもなかったな」
バルドの脇間より放たれる一閃の槍。
視線さえ向けることなく、相手の声から位置を予測。
そして放つ、と。流石と言わざるを得ぬ技術である。
尤も、老練。技術で上を征かれては立場がないではないか。
「……これは」
数秒遅れて一閃に追いついた彼の視界が捕らえたのは。
指先で、棒きれでも捻るように弾き飛ばされた白刃。
槍は柄の途中で折り、否、捻り切られ、バルドの眼前へ飛ばされていた。
自身が振り返ることを、その瞬間を予測して飛ばしたというのか。
「失望、と言ったところですか」
その程度はこちらも予測済みだ。
バルドは眼前に迫り来る槍に対し、腕や身体で振り払うことはしない。
眼球眼前、一切の挙動無くその場に魔方陣を展開。
剣を召喚すると共に刃の切れ端を弾き、双腕には盾を召喚、展開。
目眩ましの次に来るであろう豪腕の一撃に供え、両腕を交差させーーー……。
「拳撃ばかりが、力の使い道ではない」
豪腕は狭間を縫うように、滑るように、盾を連ねる腕を掌握する。
信じられなかった。豪腕が、巨岩のような腕が、まるで油の上でも滑るように。
己の腕を容易く掴み、鉄鎖のように巨指で腕を拘束したのである。
「獣であれば砕けたろう。だが、儂は人間よ」
なれば技を持つ、と。
その言葉を耳にした瞬間、バルドの肉体が翻った。
比喩や揶揄ではない。文字通り、彼の世界だけが裏返るが如く。
「一手」
無論、バルドとて翻されただけで止まるほど甘くはない。
翻されたならば然りと言わんばかりに槍を召喚、投擲。
スモークの視界に収まるべくもない片足を、穿とう、と。
「二手」
投擲された槍に、乗った。
老父の巨体が、羽毛のようにふわりと浮き上がり。
槍を支えにして、飛び上がったのだ。
否、既に跳躍していたのだろう。自身を翻した瞬間には、もう。
ならば槍の投擲さえも、読んでいたというのか。
「三手」
槍の真上で爪先を回転、投擲された槍が慣性に抗うが如く反転する。
そして、蒼鱗に降り立った老父が次に取った行動は、蹴撃。
鞭のように撓る脚撃で、槍を、蹴り飛ばしたのだ。
傍観が如く胸下で双腕を組む女に向かって。
「…………馬鹿ね」
或いは、その行動が決め手だったのだろう。
バルドは彼女に任せて欲しいと請うた。無論、彼女は、天霊レヴィアはそれに従い、手を出すことはなかった。
それが[嫉妬]への信頼の証であったし、義理でもあったからだ。
しかし自身に手を出されたとなれば、話は別だろう。
「そのままなら、勝機もあったかも知れないのに」
レヴィアの指先から放たれた、水流の一閃。
無論、スモークは盾としてバルドを投擲する、が。
水流は生物のようにうねり、彼を貫くどころか水球を持って保護して見せた。
「……何だ、これは」
老父の眼に映る水流は、自身さえも覆い尽くすほどの水流は、水ではない。
それは全て魚群。僅かな水の中に鬱蒼と密集する魚類の群れ。
天地海。世界を構築する三命を支配する三賢者。
天霊ヴォルグが空、雷雲を支配したように。彼女はまた、海という存在を支配する。
「ーーー……ッ!!」
老父は疾駆する。巨大な龍の尾、蒼鱗を。
それは人間なぞが成し得る速度を遙かに超えた、魔法石の恩恵。
だが、代償は要求される。彼の五指に纏われた紫透の内、一つが砕け散るように。
「どうして抗うのかしら」
水面のように透き通り、然れど何処までも冷たい声。
天霊にとってそれはただ疑問であった。
老いた骨を叩き、震える脚を蹴り飛ばしてまで、どうして戦うのだろう。
認めれば生きて行けるのに。受け入れれば世界はそこにあるのに。
どうして人は悲しみ、受け入れようとしないのだろう。
「……いいえ」
彼女は首を振り、自身の知っていたはずの事実を再び認める。
そうだ、彼等は抗う意味を知っている。だから、抗うのだろう。
例え勝てるはずはない敵だとしても、抗うのだろう。
「ぐ、ぬッ……!!」
老父は疾駆する。ただただ疾駆する。
自身の背方より迫る魚群の砲撃にも等しき突貫より。
飲まれればその牙が己の肉を裂き臓腑を喰らい骨を砕くだろう。
飲まれる訳には征かない。あの魚群に、未だ、飲まれる訳には。
「……けれど、意味を成さなければ」
僅かに、天霊の指先が動く。
その挙動を見たバルドは水球の中で静かに息をついた。
諦めであり、脱力であり、理解。老父の行く末の、理解。
「それは抗いですら無いわ」
老父が僅かに後方へ視線を向けた、その時。
彼の眼前に、一対の牙が向けられた。
否、一瞬では牙とすら認識出来なかっただろう。その、余りに巨大なーーー……。
[精霊竜]シルセスティアの、歯牙は。
「しまっーーー……!!」
後方、削荒の魚群。
前方、水龍の歯牙。
「…………ッ」
老父はその場で、緩やかに、疾駆を止めていく。
やがて老父の踵が鱗に付いた頃にはもう、回避は不可能な位置にそれ等は迫っていた。
然れど老父は慌てず、ただ静かに、いつも通りの慣れた手付きで煙草を取り出して、火を灯す。
「……老骨には堪えるのう」
直後、激突。
全てを抉り削る魚群の砲撃、全てを噛み砕く水龍の歯牙。
レヴィアはその様を遠い目で静かに見詰め、踵を返そうとする、が。
「ぬぇぇいぁあああああああああああああああああッッッッッッ!!!」
咆吼。自身の耳聴を劈く慟哭。
老父はただ、その双方を、自身の腕を広げ、耐えていた。
脚が喰い千切られ、骨が砕けてもなお、耐えていた。
最後の抗いと言うには、余りに無様に。それでも、必死に。
「……最期にしては」
指輪が、砕け。
牙が肉を喰らい、鱗が臓腑を潰す。
ただいつもと変わらない白煙が、眼前で、揺れて。
「悪くない、味じゃな」
老父が吐き捨てた煙草は、鱗の最中を塗って、波立つ水面へ落ちていく。
それを追うように鮮血、紅色が雨色のように流れて。
やがて、両腕を捻り斬られた、老骨の姿も、また。
「……フッ」
然れど、老父は笑う。
己の眼前に蒼快の水面があろうとも。
最早助かるべくもない状況であろうとも。
ただ老父は、笑う。
「老兵の知恵比べ……、儂の勝ちじゃな」
その言葉から即座に反応を見せたのはバルドだった。
振り返った瞬間に映るのは砲撃。自身の眉間、確実に。
彼は寸での所で仰け反って回避するも、その一撃の意味は余りに大きい。
「……まさか、我々を一度に相手取るような事をしたのは」
老父は笑って、やがて、水面へ消えて。
彼の残した水柱と降り注ぐ雫、そして僅かな白煙だけが彼等を覆う。
天へ浮かぶ鎖を躙るように片足を掛けた男と、その鎖より解き離れた少女を。
「……馬鹿野郎が」
男はたった数分の時間に後悔を吐く。
余りに大きな時間だ。余りに永く、余りに短い。
老父と引き替えなぞに出来るべくもない、時間。
「やってくれた……!!」
仮面の頬に僅かな汗が伝うと共に、天霊もまたそれに気付く。
老父が稼いだ、たった数分が意味するものを。
理解する、故に。
「抗うのね」
デッドの肩を貫く一閃、水流の弾丸。
反応する暇さえ無かった。否、あるはずなどなかったのだ。
それは余りに疾く、余りに圧倒的で。
反応する暇など、あるはずが、ない。
「……残念だわ」
水龍の咆吼が轟き、水面を激動させる。
ただ天霊は静かに瞳を伏せる。今まで見てきた物を、払うように。
確かに仮面は脅威だっただろう。彼ほど恐ろしい者は居ない。
だが、だがーーー……、だ。その天霊という存在が、区切られたのならば、それは。
{本当に、残念}
彼女は静かに掌を天へ向ける。
ただそれが必然であり、当然であるが如く。
蒼快の海全てをーーー……、掌握して。
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