老練の白煙
【シャガル王国】
《王座謁見の間》
「…………モミジ、国外から軍隊を退かせろ」
双眼鏡から目を離しながら、彼は静かにそう述べた。
城壁辺りで防衛を行ってる兵士達は既に意味がない。
ツバメの感知魔力から大量の兵士が消え去った。いや、サウズの周囲に出現したと言うべきか。
読み間違えだ。卑怯らしく言えば、都合が良かったのだけれど。
「しかし、最終的な計画には支障が……」
「出るだろうな。下手すりゃサウズが潰れて御破綻だ。……だが、それ以上に」
シャークの指先が地図を添い、海岸線で円を描く。
彼の行動と同時にツバメは涙ぐんだ瞳を左右に揺らしながら、それを隠すように俯いた。
彼女の感知する魔力が示すのは五つの円形。気泡のように小さな二つと、泡粒の一つ。
そして、それ等の眼前に君臨する巨大な円形と視界全てを覆い尽くさんがばかりの、円。
「こんなの……、勝てる訳ないよ……」
これ程までに巨大な魔力は、見たことがない。
感知しているだけで目を逸らしたくなるような、余りに、巨大な。
「っ……」
「ツバメ!」
「大丈夫……、大丈夫だから……」
彼女は口元を手の甲で抑えながら、酷く眉根を顰める。
理解出来る。いいや、理解出来てしまう。
彼等では勝てない。こんな、絶大な魔力に勝てるはずがない。
きっと、彼等はもしかしたら、もう。
「大丈夫たぬ」
彼女の小さな頭を撫でながら、震える掌で、撫でながら。
タヌキバは確信を持った言葉でそう述べた。いや、述べこそしないがキツネビも同様に。
彼女達は知っている。幾年も付き合ってきたからこそ、あの老父が彼等より劣ることを。
経験では勝るだろう、戦闘でも勝るだろう。しかし体力だけは、勝てない。
寄る年波には、あの老父でさえも。
「……きっと、大丈夫たぬよ」
だけれど、あの人ならば、あの人達ならば。
大丈夫だ。きっと、きっとーーー……、大丈夫。
《海岸線》
「……冗談じゃねぇ」
デッドは嗤っていた。
苦しみを吐き出すように、噛み締めるように、嗤う他なかった。
ただでさえ、自分達に勝ち目は無かったのだ。それを、ほんの少しの隙間を塗って刺す事だけが唯一赦された希望だったのに。
連中は、それさえも。
「……デッド、どうする」
「どうするって、スモークのおっさん」
彼等の眼前に広がるのは、竜巻のように巻き上がる水流と、央に君臨する蒼大鱗の水龍。
龍の額に立つは水麗の女、龍の尾に膝付くのは仮面の男。
彼等の眼前にて天銀の鎖に四肢を束縛されるのは、たった一人の少女。
「どうしようもねぇだろ、これ」
全ては一瞬だった。
あの男、バルド・ローゼフォンが奇妙な、魔力を纏う鎖を召喚した瞬間。
鎖はファナ・パールズの首根を捕らえ、四肢を喰らい、刹那に封殺したのである。
無論、彼女も抵抗した。幾千の砲撃が鎖を焼き切ろうと放たれた。
然れどその一片さえ、鎖の突出を伏すことは出来ず。
「唯一の刃だったんだぜ、あの小娘が。……それを捕らえられて、あんな化け物召喚されて。どうしろってんだ」
眉間から流れた汗が、鼻筋を伝ってデッドの顎へと落ちていく。
老父もまた彼と同じく心底に焦燥を抱えていた。余りに鈍沈で、余りに重泥。
己の肉体を這う、言葉にも出来ぬような焦燥感。否、それは危機感とさえ。
「……ふむ」
だが、老父は自然と落ち着いていた。
否、内心は乱れに乱れて今すぐ嘔吐さえしてしまいたい。
然れど、老父は落ち着いている。今まで幾度も危機を乗り越えたからだとか、この状況に対する打開策を練っているからだとかではなく。
老父は、落ち着いている。ただ、知っているから落ち着いている。
「デッドよ」
懐から煙草の箱と火付を取り出しながら、老父は彼の名を呼ぶ。
その眼は果てなく澄んでいて、煙草に火を灯す動作は小慣れていた。
そう、落ち着いているのだ。ただいつも通り朝の西日を眺めるように、落ち着いている。
これは、諦望ではない。達観でもない。
そうだ、これは、覚悟か。
「暫し、見ておれ」
白煙に紛れ、空を舞う煌めき。
デッドの眼は光に溶けるそれを何なのか理解出来なかった。
いいや、或いは拒んでいたのだろう。それを知ってしまえば、認めてしまえば、老父が何をしようとしているか理解してしまうから。
「…………」
今一度、老父は白煙を大きく吸い込んで、吐き出した。
自身の肉体を覆うように墜ちていく白煙。或いは、舞い上がる砂塵。
悪くない。決して、悪くない景色だ。
願わくば、娘達に両手を握っていて欲しかったけれど。
「それは、我が儘かのう」
苦笑しながら、彼は武骨な指にそれを填め込んだ。
パワルの宝石ーーー……、身体能力を飛躍的に上昇させる魔法石。
無論、天霊レヴィアと[嫉妬]バルド・ローゼフォン、そして[精霊竜・シルセスティア]相手にそんな物は付け焼き刃でしか、いや、付け焼き刃にすらないらないだろう。
然れど老父の表情に焦燥はない。ただ白煙を己の手足に舞わせながら、微かに口端を緩めるのみ。
「老練、スモーク」
理解しているからこそ。
退けない戦いがある。
「いざ、参る」
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