天霊の慈悲
【シャガル王国】
《王座謁見の間》
「…………」
緊迫。
空気が張り詰め、誰一人として吐息すら赦されない。
幾多の銀閃が光ろうと、殺意が交差しようと。
誰も、動かない。動けない。
「……少し、提案させてくれないかしら」
ふと、硝子のように透き通る声が響き渡った。
皆は視線を逸らすことなく耳を澄まし、一人、国王のみが何かと問う。
女は一息吸い込んで、静かに、ゆっくりと吐き出す。
「ここで戦うのは私としても本望ではありません。なのでシャーク国王、戦場を変えませんか」
僅かに、動揺の声が漏れた。
華奢なその声が誰の物だったのかは解らない。
然れど必然だ。その問いは余りに甘美であり、そして、余りに異様である。
奴等からすればここで戦うことに利益こそあれど、不利益はない。
むしろ戦闘や士気を考えればここで戦うのが最善だろう。
それを、戦場を変えると言うのだ。これ程有り難い提案はない。
「……恐らくこの提案を受ければ、貴様等の思う壺なんだろうな。有利な戦場か? 計画通りの煽動か? 体の良い戦力分担か?」
「断り、ますか」
「いや、乗る」
シャークが手を掲げると共にデッドとスモークが一歩を踏み出した。
否、正しく言えばキツネビとタヌキバもそうだったのだが、スモークが己の豪腕でそれを制したのである。
よって二人。そして、続くように一人。
「何処で戦っても同じだと思いますがねぇ」
歩み出た三人を侮蔑するような笑み。
否、然れど皆が知っている。その笑みは決して侮蔑などではないと。
侮蔑という意味さえ孕まぬ仮面なのである、と。
仮面故に何の意味も孕まず、ただ存在しているのだ、と。
「……私はどちらかと言えばオロチ寄りの思想なの。人間だからと全て滅ぼす理由なんてないわ」
「別に構いませんよ。私の目的は変わらない」
「ありがとう、[嫉妬]」
レヴィアの周囲に流水が収束し、歩み出た者達の足下に浮遊場を形成する。
やがて僅かな鳴響と共に彼等の姿は流渦の中へ呑まれていった。
透水の中に覆われ征く彼等が残される者達に言葉を送ることはない。
しかし刹那の視線だけは、残していった。
「追うことは赦さん」
鳴響が止んで皆の姿が消えたとき、シャークはそう言い放つ。
走り出そうとしていたタヌキバとツバメはその言葉で怯えるように足を止めた。
いや、キツネビやモミジもそうだろう。準備を整え援軍に向かおうとしていた彼女達も、また。
「俺達では足手纏いだ。折角奴等が戦場を別に移してくれたっつーのに、また邪魔しに征くつもりか?」
俺達の成すべき事から目を背けて無駄死にするつもりか、と。
彼の問い掛けに答える者は居ない。答えられる者は居ない。
そうだ、自分達には成すべきことがある。成さねばならないことがある。
「……やることがあんだろ、俺達には」
彼は掌を強く、強く握り締めた。
天霊とバルド・ローゼフォンだ。正直言って、デッドやスモーク、ファナに勝ち目はないだろう。
だがそれ故にデッドとスモークは理解しているはずだ。自分達の役目を。
計画を発動するために必要な、時間稼ぎという、役目を。
「お前等全員備えろ。……森の魔女が用意し、俺達に託した物を無駄にするな」
皆もまた、彼に習うように拳を握り締める。
その掌に握るのは力ではない。魔法や魔術、知恵や知識でもない。
無力故に、弱者故に。無力だからこそ、弱者だからこそ握れる物がある。
何人にも砕けぬ信念を。決して揺らがぬ、信念を。
「俺達を舐めるなよ、天霊……!!」
《海岸線》
「ここなら被害も少ないでしょう」
レヴィアの言葉と共に、五つの水球が砂浜と水面に降り立った。
皆が体勢を崩すこともなく、丁寧に、砂の上に立たされたのである。
それこそファナ達をそのまま叩き付けるか、水球の中で溺死させてしまえば良いのに、だ。
「随分と丁寧なのだな、天霊よ」
老父の嫌味を歯牙にも掛けず、レヴィアは僅かに首を振るう。
彼女という天霊にとって、望みは精霊の楽園を作ることだ。
その為にツキガミの復活も手伝ってし、スズカゼ達の犠牲にも目を瞑った。
例え、それが自分の心を縛り付けるような所行であったとしても。
「……私はオロチのように人間を利用し尽くして潰そうなんて思わないし、ヴォルグのように汚らわしいから根絶やしにしようとも思わない。私は、ただ彼等と目的が一致しているだけだもの」
「土台理解出来ぬ話よなぁ。儂等からすれば迷惑以外の何物でもない」
「そうね。否定はしないわ」
彼女の周りに、水が浮かぶ。
それは水龍のようにさえ見えた。透き通る鱗が彼女の脚を這い、腕に絡みついて、麗しき頬に口付けをするようにさえ。
妖艶と称すのが正しいのだろう。男ならば虜になってしまうような、美しさ。
然れどこの場に居る男も、或いは女も彼女に魅入ることはない。
放たれる殺気故に、魅入る暇などない。
「私と貴女達の実力差は歴然。その上に[嫉妬]まで居る。……大人しく降参するのであれば、今は手を出さないと約束するわ」
彼女の提案は刹那の静寂と、歪みなき仮面の笑みを示す。
もしこの場にシャークが居れば提案を受け入れただろう。
いや、この場に測れと意志を同じくする者が居る。
デッド・アウト。シャークと異母であれ兄弟である彼は、恐らくその男がそうするであろうように、提案を受け入れるようにそうかと呟いた。
頷いて、話に耳を澄まして、片手を上げて、中指を立てる。
「クソ喰らえだな」
その言葉と行動を前に、僅かながらレヴィアの頬が引き攣った。
以前変わらぬ仮面を隣に、彼女は何故かと問おうと身を乗り出す。
しかしその問いを投げかけられるよりも前に、デッドは獣らしい牙を剥き出しにして醜い嗤いを見せた。
「それを受け入れたとして、俺達はどうなる? 精霊共の楽園の中で俺達は家畜にでもなるのか? それとも作られた幸せの中で温々と過ごすのか?」
ただ、一本のナイフを構えながら。
「どっちもゴメンだね。俺は弱者だからって願いに膝を折って請うことはしねぇ。命知らずは伊達じゃねぇんだ」
少しだけ、悲しそうに。
レヴィアは俯きながら、そう、とだけ呟き。
自身の周囲に水膜を展開する。
「……」
然れどファナはそちらに視線を向けず。
ただ老兵の隣を通り過ぎながら、その仮面を対峙した。
「全員やる気満タンだ」
決して勝ち得ぬ戦い。
或いは逃げ道が用意されていたのに、逃避も赦されたであろうに。
彼等はそれを選ばなかった。選ぶはずなどなかった。
「……始めようぜ」
弱者の意地がーーー……、そこにはあったからだ。
読んでいただきありがとうございました




