停止した世界で
【サウズ王国】
《城壁外郭》
残骸を踏みにじるように、彼は足下の小石を擦り除ける。
相変わらずとしてその仮面は変わらない。変わるはずもない。
ただ己の肉体にある僅かな裂傷のみに意識を落として、眼下に佇んでいた。
「……さて」
バルドの眼に映るのは一人の男と、一人の女。
漆黒の衣で全てを覆い隠し、ナイフを片手に携える者。
口元を布地に包みながら、静寂に身を沈める者。
「私の相手は貴方達、ですか」
問うても、いや、言葉を掛けても彼等は何も答えない。
ただ刃を構え、樹木を生成し、殺意を宿すのみ。
「……何も喋らない相手ってのは、怖いかな」
そんな冗談を漏らしながらも、彼の両腕には双対の槍が召喚される。
然れど殺意はない。自分の役目は既に終わっているのだから。
いや、正確には未だ終わっていないが、まぁ、ほぼ終わっているような物だろう。
「まぁ、後は頑張って貰いましょうか」
己の踏むべき地を前にして、自身の背で猛る焦燥から目を背けながら戦う。
それは何と言う皮肉であり、何と残酷なことであろう。
尤も、それでさえ彼に比べれば、軽いものなのだろうと思えるけれど。
「……ねぇ? グラーシャ君」
白銀の刃がナイフとの狭間に火花を散らし、革靴は樹木を蹴り上げる。
所詮、自分の役目は彼が終えるまでの足止めと成り果てたのだ。
ならば今暫し、戯れよう。彼等と生死の狭間で、刃を交わしながら。
《住宅街》
歩む、静寂の刹那を。
見る、幾多の悲鳴と拒絶を。
「…………」
自身を迎え撃とうとする何人もの騎士達。
彼等の覚悟と恐怖に満ち溢れた表情は、どうにも恐ろしい。
恐ろしいが、脅威ではない。最早一縷として動かぬ、それは。
「この世界こそ、僕の世界だ」
ずっと、ずっとそうだった。
過去の、自身が孤児だった時から。
自分の世界はここだけだった。友と出会った時も、別れた時も。
天霊達の誘いを受けた時も、覚悟を決めたときも、友と別れた時も。
変わらない。ただ、この世界だけが自分の存在だった。
「誰も居ない、何の音もない。誰もが止まったこの世界だけが、僕の世界だった」
彼は歩んでいく。
ただ真っ直ぐに、幾多の殺意や怒号の波間を抜けて。
全てが止まりきった世界の中を、ただ。
その者の元へと、真っ直ぐに、歩んでいく。
「この世界は孤独だ。誰も存在せず、誰も居ない」
彼は腰元から、一本の刃を取り出した。
厚革の鞘から引き抜かれたそれは、空を撫でるように白銀の輝きを放つ。
己の刀身に一人の老父を、映し出して。
「だからこそ、僕だけ世界だった」
何人たりとも存在せず。
静寂と停止だけが赦される世界。
それは紛うこと無くグラーシャ・ソームンの所有物であり、証明だった。
「貴方さえ、居なければ」
刃は、振り翳される。
全てが停止した刹那で、その老父へと。
己の父へと。己の父だった者へと。
「僕達の、世界だったんだ……!!」
ただ、無慈悲に。
振り、降ろされる。
「死ぬつもりか」
はずだった。
「ッ……!!」
グラーシャを止めたのは。
彼自身ではない。憎悪たる老父でもない。
己に残った最後の友人にして、理解者にして。
自身が怨禍の海に投げ込んだ、一人の男だった。
「……クロセール」
己の刃を止めたのは、依然として琥珀。
全てが停止しきったはずのこの世界に、彼は割り込んで来たのだ。
全てが止まりきったはずの己と老父の狭間に、割り込んで来たのだ。
「どうやって……、とは聞いた方が良いかな」
「予感していただけだ。四年前の、あの時から。……貴様が俺に全てを教え、ギルドが崩壊したあの時から」
彼とて災禍への対策と器の捜索に四年を注ぎ込んだわけではない。
だが、彼は、いや、オクスやフーもそうだろう。
彼等は知っていた。己達の実力は最早、臨界点に達していることを。
これ以上の伸び代はない。才能や身体、魔力全てにおいて、大凡、成長限界に達していたのだ。
しかし、それが止まる理由になるはずなどなく。
彼は伸び代が無いならば、ただ横へ広げることを望んだ。
凍結、と。彼の持つ魔法の特質を、伸ばすことを。
「……グラーシャ、思い留まれ。その老父を殺せば、貴様は死ぬぞ」
「死ぬ? 下らない、戯れ言を」
「ヴォーサゴ老と同等に成り下がるつもりか」
一瞬だと言えば、その程度なのだろう。
それでもクロセールの眼鏡は、確かに映していた。
苦憎に眉根を歪ませるでもなく、悲嘆に口端を下げるでもなく。
ただ、己でも信じられぬと言う程に憤怒に眼を見開いた、彼の表情を。
「……それでも、だよ」
再び、刃は振り下ろされる。
然れど、いや、当然ながら白銀は琥珀の氷塊によって弾き飛ばされた。
この世界において、全てが停止した世界においてグラーシャは常人でしかない。
それは解りきった、必然の結果だったのだろう。
然れど必然は、クロセールにも等しく降りかかる。
「ッ……!!」
急速に伸縮する心の臓腑。
本来、彼の魔法は物質を凍結させる、或いは琥珀の氷による造形を作り出す物だ。
所詮四年という月日で磨き上げようと割り込みは急拵えでしかない。
良くて数分、悪ければ数十秒。
それが、彼に赦された停止への滞在猶予。
「……このまま放置すれば君はこの世界から弾き出されるだろう。無理に残れば時の狭間に取り残されるだけだ」
けれど、と前置きを置いて。
彼は瞼を伏せながら、忌々しそうにそれを吐き捨てる。
「もう暫しすれば、災禍の……、[獣人の姫]が来るだろうね。慎重な、それでいて聡明な君らしいよ」
それは決してとは言わないが、使いたくない手ではあった。
出来ればここで説得したかった。ここで、終わらせておきたかった。
彼と老父の因果を。彼と己の微かな因縁を。
「……ここは退かざるを得ないね。僕じゃ、彼女には勝てないから」
彼は踵を返すと共に、老父を一瞥する。
その眼にあるのは憤怒。そして、また別の何か。
哀愁や悪意だけでは説明も付かぬ、また、別のーーー……。
「……っ」
去りゆく背中を眼鏡に映しながら、クロセールは牙を食い縛る。
何の為に先駆けてきた。何の為に彼女達を待たせてきた。
ただ一人の友さえ、ただ一人の敵さえも、止められぬと言うのか。
「……それでも、立ち止まる訳にはいかない」
彼女は立ち上がった。己よりも幾千幾多の壁に膝を折った彼女は。
ならば己でさえ立ち止まれるはずなどない。己の成すべき事から、目を背けられるはずなどない。
「そうでしょう、ヴォーサゴ老」
彼が言葉を投げかけるのは一人の老父。
未だ停止した世界で静かに佇む、いいや、佇む振りをしていた、老父。
「気付いて……、おったか」
「当然でしょう。この場で嗤うなど、違和感極まりない」
老父は自然と緩んでいた口端を嗄れた指でなぞり、再び縛り付ける。
否、口端だけではない。安堵しつつあった、己の精神さえも。
「……解き放たれぬな。儂も、貴様も」
「えぇ、まだ……」
老父は布地に覆われた瞳を。
男は硝子に遮られた琥珀色の瞳を。
ただ解けゆく世界に向けて、静かに、心の瞼を閉じた。
読んでいただきありがとうございました




