託されたもの
見えるのは草原に突き刺さる剣だった。
体が重い。四肢の感触はなく、呼吸さえ出来ない。
当然だろうーーー……、呼吸を行える臓腑がないのだから。
己の胸元から下が、無いのだから。
「…………」
また、繰り返す。
己の肉体は不死の焔に抱かれ、再誕していく。
その焔が焼くのは傷や死ではなく、己の心。
何度も何度も何度も、燃えるはずなどないのに、焔が襲い来る。
自分は何の為に生まれるのだろう。護る為だ。
自分は何の為に戦うのだろう。護る為だ。
自分は何の為に刃を振るうのだろう。護る為だ。
ならばどうして、こんなにも苦しいのだろう。復讐の為だ。
{……まるで、呪いのようだ}
神は己の槍を地に突き刺し、少女を見下ろしていた。
守護に囚われしその者。憎悪に覆われしその者。
今まで幾千幾多の戦人を見てきた。誰も彼もが戦う理由を持っていた。
護る為、殺す為、嗤う為、願う為、求む為、抗う為、信ず為、追う為。
ただ己の為に、と。死すことが解りきっていようとも、挑んでいた。
彼等は違いなく戦人であった。その死に顔がどの様に歪もうと、どのように純粋であろうとも、違いなく死力を尽くし、己の生を全うした。
{不死たり得るが故に}
然れど、この少女は。
{呪縛たり得るが故に}
何も持ち得てはいない。
{貴様と言う存在は何処までも、脆い}
友が終わりを求める理由がそこにはあった。
終わりがあるからこそ、限りがあるからこそ生命は生命なのだ。
その輝きを求むが為に、彼等は終わりを持つ。死を終わりとする。
急き立てる為に、背を押す為に、歩み続ける為に。
最期の安楽を、願うが如く。
{器よ、問う。貴様にとって剣とは何か。戦いはとは何か。護るとは……、何か}
「……私にとって護るとは生きる意味であり、戦う理由です。この刃を振るう、意味です」
{ならば貴様は誰かが居なくなった時、剣を取らず、戦わず、護りもせず、死すのか}
「……それでも、良い。私は刃の潰れた剣で在るべきだった。誰かを護る為に振るわれる存在であるべきだった。誰かの為に誰かを傷付けることはなく、ただその存在だけが調停であるべきだった」
{振るう者が居なければ塵芥と成り得ることを望むのか。護るべき物が居なければ無意味である事を望むのか}
スズカゼ・クレハにとって護る者は支えであり鎖である、と。
嘗てそう思い、悩んだ者が居た。
然れどそれは違う。そうではない、そう在るべきではない。
誰もーーー……、全能者や神でさえも、仲間や友でさえも、彼女を理解出来た者は居ない。
誰一人として、否、たった一人だけしか、彼女を理解した者は居ない。
「この世界で、私は戦い続けてきた。護る為に、己の為に、戦う為に。誰かの為、己の為とーーー……。正義感を振り翳して、刃を振るい続けてきた。一度として研ぐことはなく、延々と……」
{ならば何故、今もそうあれかしと願わぬ? 力があり、覚悟があり、動機があるのだろう? ならば何故、今もその刃を振るおうと思わぬ?}
「……怖いんですよ」
彼女は。
「私が戦い続けた後に何が残る。私が刃を振るい続けて誰が護れる。私の手の届かない所で誰かが傷付き、誰かを傷付ける。私は仲間を護りきれない。そう、知ったから……」
気付いていた。
「元より無理な話だったんです。高々十数年しか生きていなかった小娘が戦乱の世界に放り込まれて、口先だけの姫になって、少し力があったからって戦って、それが与えられた物だとも気付かずに調子に乗って、全部自分で出来ると思い込んで……」
己が成してきた事の。
「挙げ句の果てに仲間を失って、何も出来ずに、託された物さえ護れる気がしなくて……」
重さを。
「気付けば、独りになっていた」
彼女の頬を涙が伝う。
何人も拭えず、何人も止められぬ、涙。
ただ彼女だけが理解し、彼女だけが流す涙。
「猛る焔海で、孤独に立っているだけだった。仲間という夢の骸を抱えて、嗚咽を零すだけだった」
力があっても、覚悟があっても、動機があっても。
何も出来ない。何も成せない。
護る為の力が、覚悟が、動機が。
復讐の為の力が、覚悟が、動機が。
矛盾して、噛み合わない。
「私は怖い。世界が、仲間が、刃がーーー……、怖い」
ただ一人、涙を流す。
獣人の姫と呼ばれ、紅骸の姫と呼ばれ、災禍の姫と呼ばれ。
誰かを護る為に刃を振り続けてきた彼女は。
たった独り、涙を流す。
{……あぁ、そうか}
神は無力な女を見下ろして、息をついた。
こんなにも単純で、こんなにも無意味で。
然れど彼女は、それに気付くことさえ無かったのだ。
{貴様は誰かを護るばかりで、自分を護ろうとしなかったのか}
それは何と言う、皮肉だろう。
万人のために刃を振るう姫は、たった一人の護り方を知らなかったのだ。
自分という最も近い存在の護り方さえ、知らなかったのだ。
{……器か。何も得ず、ただ受け止めるだけの存在}
虚ろな矛盾。
何と滑稽なのだろう。何と愚かなのだろう。
己が為に創り出されたこの器は、何とーーーー……。
{嘗て}
ふと、神は己でさえ解せぬ言葉を零す。
何故この逸話を零そうとしたのかは解らぬが。
それを止めようとは、思わなかった。
{ある男が居た……。その男は決して天超の刃を持ち得はせず、地逸の魔を持つ訳でもない、ただの凡人であった}
然れどその者は己へ刃を向けた。
ただの鈍らを、塵芥を、無意味に向けた。
{然れど、決して折れぬ信念を持っていた」
絶望や絶命を前にしても。
その信念が折れることはなく、その信念を捨てることはなく。
ただ彼は、その青年は己に向かって来た。
愚かしく、滑稽に。然れど、雄々しく。
{己の剣を捨てるな、と。愛した者から与えられた言葉故に}
彼女は瞳を見開いた。
涙に濡れ、痛みさえあるその瞳を。
彼が託してくれた光のように、自分が託した言葉のように。
{美しく、懐かしい輝きであった。彼の者が持ち得たそれは……、永らく触れることの無かった輝きであった}
神は静かに腕を上げる。
その指先をスズカゼの魂へ、差して。
{そしてそれは今、貴様の中にある}
彼女を理解していたのはたった一人。
それは彼女自身ではなく、仲間ではなく。
その背を追い求め、愛し、全てを託した一人の男。
ただ、その者だけ。
{その者は貴様に託したのだ。虚ろな矛盾を持つ貴様の魂を、補うように}
スズカゼは己の胸を覆う。
裂傷より痛く、嗚咽より苦しく、絶望より深く。
それでもなお、指先を離すことはなく。
{誰が望んだ。貴様に護れと誰が言った。誰が貴様に救ってくれと言った}
深緑の眼が彼女を映す。
何処までも無力で、何処までも愚かで、何処までも滑稽な。
たった一人の、少女を。
{目を覚ませ。己で己を縛るな。その輝きを鈍らせるな}
神の腕が槍を掴む。
純白にして純銀の、万物を絶つ刃を。
死を司りし、刃を。
{貴様は貴様の為に生きろ。自惚れなど捨て、己の生き様を見せてみよ}
ふと、風が吹いた。
草々を揺らし、神と彼女の衣を靡かせて。
音を掻き消し、瞼を細める、風が。
「あの時みてぇに立たせないと駄目か?」
初めて出会った時と、同じだった。
自分を見下ろし、呆れたように肩を落として。
あの時も、あぁ、あの時も問われたはずだ。
お前は何者なんだ、と。そう問われ、自分は答えた。
涼風 暮葉です、と。そう、答えた。
「……いいえ」
託されたのだ。
二人に、いいや、もっと多くの人に。
虚ろな矛盾を抱えるこの心に、託されたのだ。
「ありがとう……、ございました」
彼女は微笑んだ。
きっとそれは空耳だった。最早、存在しない彼の言葉は、空耳だったのだろう。
けれど、だけれど。シンが立ち上がらせ、彼が背中を押してくれた。
だったら、歩けるはずだ。この先へ、自分は行けるはずだ。
ただ刃を持って、それががらくたなのだとしても、自分は。
「私は私の為に、仲間を護ります」
紅蓮の焔が、彼女に宿る。
白く、空虚であった髪色が次第に紅色へと染まっていく。
嘗てそうであったように、彼女という存在に戻るように。
美しきーーー……、紅色へと。
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