その者を縛る鎖
【シャガル王国】
《国境線・草原》
「シャガル王国に入りましたヨ」
レンの言葉通り、獣車の窓から見える景色はいつの間にか侘びしい平原から、緑々しい草原へと変わっていた。
そんな光景を前にフーは思いっ切り背筋を伸ばして、大きく息を吐く。
オクスも同様に何度か肩を鳴らすが、その表情が晴れることはない。
原因は単純だろう。彼女の仲間であるクロセールと、チェキー達と別れてから数日経つと言うのに未だ何も言わないスズカゼだ。
「…………」
無理もないと言えば、そうなのだろう。
自分達は覚悟を決めた。それを突き進めるだけの経験や力があると自負している。
然れどクロセールは賢明な男だ。自分達の頭脳役としてずっと付き合ってきた程に、賢明で、聡明だ。
だからこそスズカゼ・クレハの苦しみが解るのだろう。解って、しまうのだろう。
「アレを解けるのは、誰なのだろうな……」
鎖の鍵を持つのは誰か、と。ふとそんな言葉を思い出す。
己の手足を鎖で縛られた者は、己ではその鎖を解くことは出来ない。
その鎖端を契る錠の鍵を持つはずなどないし、鎖を素手で千切れるはずなど無いからだ。
つまり、その鎖を解けるのは鍵を持つ者だけ。その者に傷を与えた者だけだ、と。
「……はぁ」
自分はこの言葉が好きではない。
暗に、これは復讐を振起させているような物だ。
いや、今のスズカゼにはお似合いの言葉だろう。彼女は最早、復讐の為に戦っていると言っても良い。
あの大監獄での慟哭が、何よりの証拠だ。
そしてその慟哭こそが彼女を責め立てる毒となっている。
端的に言ってしまえば動機と信念が噛み合っていないのだろう。護る為の剣と、奪う為の意思。そんな物が、噛み合うはずなどない。
「…………はぁ」
二度目の、ため息。
彼女の遍歴を見ればそれを責めることなど出来ないのは当然だ。
仲間を奪われ、居場所を奪われ、志までも奪われてーーー……、それでもなお立ち上がろうとした彼女に悍ましい刃を振り下ろした。
もしも自分がその立場だったらと思うことさえ出来ないほどに、想像を絶する悪酷。
恨むなと言うのであれば、それは彼女に人間を止めろと言っているような物だ。
いや、そうではない。事実、彼女はもう人間を止めてしまった。
その肉体を神へと変貌させてしまった。
ただ残る精神だけが、彼女が人である証なのだろう。
彼女、スズカゼ・クレハという存在の証なのだろう。
然れど、それが己を縛る鎖の錠であるというのは、何と言う皮肉だろうか。
「……」
一瞥を向ける。
そこに居るのは相変わらず蹲るだけの女性。
四年前より幾分大人びただろう。けれど、四年前よりその背中は小さくなってしまった。
雰囲気が変わってしまったのはきっと、歳月の所為ではないーーー……。
「レン、ここで一旦止まって休憩を取った方が良いと思うのだが、どうだろう」
突然の提案。
フーの言葉に少なからずオクスとクロセールは反応を見せたが、反論という意味ではない。
むしろ、何処か諦めというか達観というか、どうにか反応を返したと例えるべきだろう。
彼等もまた疲れ果てているのだ。大監獄からの連戦とスズカゼ・クレハの現状。
それを垣間見れば休息らしい休息など、今まで無かったのだから。
「そうですネ、この辺りに湖がありますからそこで休憩にしましょウ」
獣車はほんの僅かだけ行く先を変える。
草原の緑が風に揺られた気がした。獣車の車輪に踏み潰されただけなのに。
オクスはただ、そんな光景が何処か皮肉めいてさえいるように思えた。
彼女がこんなにも悩み、苦しんでいるのに。
自分達がこんなにも覚悟を決め、進んでいるというのに。
どうして外の景色は、こんなにもーーー……。
「少し手荒ですが、ご容赦くださいね」
鍵が。
錠を解く鍵が、あった。
「ナ、何ッ……!?」
レンの悲鳴と共に、オクスは気付く。
風に揺られている草原に、獣車の車輪痕が付いていないことを。
獣の嘶きに軋む獣車が、進んでいないことを。
大地から、離れて行っていることを。
「襲撃ーーー……!!」
気付いた時には既に遅かった。
それは子供がおもちゃ箱を引っ繰り返すかのように、無邪気な。
然れどそれ故に容赦なき、一撃。
ただ獣車の横っ腹を切り捨てるかのような、一撃。
「ッ……!」
殺意はなかった。
容赦は無くとも、それに殺意はない。
故に彼女達はごく当然の様に着地出来たし、レンもまた無傷でフーに抱え上げられていた。
故に、か。故に、理解する。
あのまま、容赦なき無垢の一撃で死に絶えていたのであれば、どれほど幸福だったのだろうか、と。
その者と対峙しないことが、その者を瞳に映さないことが、どれほど僥倖なのだろうか、と。
{……久しいな、我が器よ}
男だった。
スズカゼ・クレハだけではない。その場に居た者達、皆が見覚えるのある男。
ゼル・デビットーーー……。[サウズ王国最強の男]として名を轟かせ、スズカゼとも浅くない縁を持っていた、その男。
ただ違和感があるとするならば、その物が纏う純白の衣と純銀の槍。
直視することさえ躊躇われるほどに神々しき、武具。
繰り返そう、それは男だった。
神などではない、ただの男。
{随分と、淀んだ眼をしている……}
故に、誰一人として動けない。
その者自身には神々しさなど欠片も無かった。
ただの男なのだ。武具さえ無ければ見間違ってしまう程に、街中を歩いていると言われれば信じてしまうほどに。
それがどれ程の恐怖だっただろう。ただ何も感じないという事が、どれ程の恐怖だろう。
恐ろしさの余り絶叫すべき相手だ。全ての根源であり、全ての元凶であるその者を前にして。
だと言うのに何も感じない。それこそ、己の心の壁を摺り抜けて、或いはそれさえも撫で降ろして、触れてくるかのように。
{……どうした? 器よ}
誰も動くことなど出来ない。
故に、彼女は動く。己の苦しみなど振り切って。
いいや、引き摺って、動く。
護る為に、と。自身を支える理念の為に。
{あの時のように……、斬り合おうぞ}
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