戦乱打ち払いて
【サウズ王国】
「ケハッ、クハハハッ……!」
裂けるような、嗤い。
獣は己の四肢から流れ出る鮮血を省みず、ただ嗤っていた。
眼前の男はその衣服に刻まれた爪痕、斬閃、銃創。そんな物は一縷として気に留めていない。
ただ眼前の、片膝を突いたデモン、酷く息を切らすヌエ、そして地に伏した道化師を嘲笑うかのように、立つばかりだった。
「有り得ない……! こんな、馬鹿なっ……!! 魔法も魔術も使わず、体術のみで……!!」
狼狽するヌエに対し、黒衣の者は再びナイフを手に取る。
彼女は彼が々差を始めるよりも前に幾多の影という刃が放つ、が。
それらは容易く斬り伏せられ、或いは弾き飛ばされて。
ヌエの眉間を貫く刃一つさえも、防ぐことなど出来ずに。
「ッ……!!」
陽炎が如く揺らめき、ヌエは己への一撃を回避した。
否、肌を覆う布地へ流血が滲んでいる当たり、どうにか回避出来たと言うべきだろう。
それ程までに、黒衣の者は強かった。例えヌエ、デモン、道化師の三人組で挑もうと、その鮮血を見れぬほどに。
「……撤退しましょう、[暴食]。この男が何者かは解りませんが、普通に戦って勝てる相手でないことだけは確かです」
「逃げる? 逃げるだと?」
獣はただ嗤い、その双牙を剥く。
漸く会えた、漸く真に戦える強者と出会う事が出来た。
これから逃げろ、と? これ程の者を前に逃げ出せ、と?
巫山戯るな、巫山戯るな、巫山戯るな。
これこそが望んだ物だ、これこそが在るべき物だ。
それから逃げるなど、巫山戯るな。
「……もっと、俺を楽しませろよ」
一撃。
黒衣の者の首元を抉り飛ばすかのような、砲弾、或いは拳撃。
拳速が上がっている。戦い始めた頃よりも、間違いなく。
黒衣の者はそれを前に確信した。この男は本気を出すだとか戦うだとか、そんな器用な真似が出来る人物ではないのだ、と。
ただ闘争、ただ戦乱。己が置かれている状況こそが、相手の強さこそが、この男の戦う理由。
力を出す、理由。
「ケェカッカカキャカアカカカカカカカカカカカカカッッッッッッッ!!!」
正しく狂者、強者、凶者。
狂った咆吼を、強者の爪牙を、凶者の殺意を。
ただその獣人は振るう。ただその戦人は振るう。ただその喰人は振るう。
暴食ーーー……、全てを暴れ喰らう者は、ただ。
「喰らわせろォオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!」
デモンが飛ぶ。
黒衣の者が駆ける。
爪が、刃が、交差する。
「嫌いじゃねェぜ」
刹那。
黒衣の者の前面に展開される紫透明の結界。
彼の刃は弾かれ、デモンの爪もまた弾かれる。
二人は跳ね飛んだ。ただ、己の力と速度をそのまま返されるかのように。
「かッ……!?」
「っ……!」
双方に身体的被害はない。
所詮は弾いただけだーーー……、それが彼等の戦闘に意味を成す物ではないだろう。所詮、一手を無駄にしただけのことなのだから。
然れど、暴食者がそれを赦すはずもなく。
「……どういうつもりだ? 道化師よォ」
彼の双眸には殺意があった。
食事を邪魔された、否、狩猟を邪魔されたのだから当然だろう。
或いは仲間であれども殺す、と。その双眸は語る。
然れど道化師は弁明の一つも浮かべない。自身へ剥く、二つの抗議を表す眼光を前にしても。
「……[暴食]、ここまでです」
然れどヌエもまた、道化師同様に彼を止めるが如くその前へと歩み出る。
デモンは彼等の行動に、怒りへ身を任せ拳を振るおうとさえした、が。
自身の背後にある殺気に気付きーーー……、僅かに視線を逸らす。
「フレース・ベルグーン……。そんで」
頭上に浮かぶ、幾千の焔球。
一度それが拘束から放たれれば、白炎の雨が幾千と降り注ぐだろう。
それが未だ成されず浮遊しているばかりなのは、即ち警告を表すという事だ。
「ファナ・パールズか。そんな奴も居たなァ……」
「どうやら外発ちから戻ってきたようです。この男だけでさえ分が悪いのに、彼女まで来ては完全に計算外でしょう。……ここは、退くべきかと」
「テメェ等で勝手に退け。もう少し、もう少しで掴めそうなんだよ。俺がやるべき事が、俺が求め、欲し、望むことが……!!」
獣が腕を伸ばし、強者の魂を喰らうべくその拳を創り出す。
渇きが癒えていく。ただその先に到るが為、爪先を湖に沈めるように。
あと少し。ほんの数歩で辿りつけるはずなのだ。
それを、撤退などと言う妄言で吐き捨てるなど、あってはーーー……。
「……ぁ?」
獣の両腕に纏われた、枷。
紫透明のそれは彼から力を奪い、四肢から自由を奪う。
ただやがては、その意識すらも。
「ご苦労です、道化師」
「…………」
「いえ、ロクドウ・ラガンノットと呼びましょうか。貴方に関しては[怠惰]ユキバ・ソラに一任していますが、事情をお聞かせ願えると有り難いですね」
相変わらずとして、道化師は何も答えない。
ただ四肢全ての機械を躍動させるかのように、指を折っていくばかり。
覆い隠された表情にさえも、色はなく。
「……ここは下がります、ニルヴァー・ベルグーン。そして他者達よ」
影が伸び、次第にデモンと道化師の体を覆っていく。
その場に居る者達がそれを止めることはない。無論、止めたところで降り注ぐのは白炎の雨ばかりだが。
「しかし必ず、貴方達は処分させていただきます」
どぷん、と。
沼地に重石を放り込んだかのような、沈殿音。
その音を幕引きに、全ては静寂へと沈むこととなる。
残されたのはフレースとファナ、そしてニルヴァーと呼ばれし黒衣の者。
彼等が何かを述べることも、叫ぶこともない。ただあるのは、奇妙な、静寂ばかりが故に。
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