黒騎士
蹄の音が虚空に響き渡る。
首無き馬の嘶きがその場に居る者達の背筋を凍り付かせた。
来る。ダリオにあの悍ましき力を与えたその者が。
強大な大剣を携えて、首無し馬に跨がりながら。
「……ふむ」
老父は己の目元を隠す布地に指をなぞらせた。
勝てない。いや、一撃さえ与えられないだろう。
先のダリオは人間に疑似化していたが故に精神があった。
いや、それすらも疑似的な物だったがーーー……、どちらにせよ入り込む隙があったのには違いない。
「だが、じゃ……」
あの男には精神、延いては心がない。
天霊故に遺伝子のような物も存在せず、周囲の物体を操作しても傷さえ与えられないだろう。
即ち、天敵だ。
この男を相手にしても、勝てる訳はない。
「……クロセール」
「如何なさりましたか……、ヴォーサゴ老」
「責任を持ってスズカゼ・クレハを逃がせ。この場は儂とスーが受け持とう」
老父の言葉と共にスーは[超獣団]の前に展開していた樹木を解除し、ヴォーサゴの隣へと膝を突いて平伏した。
クロセールが反論する暇さえなく、二人は踵を返してその者へと向かって行く。
圧倒的なる[天霊]の、元へと。
「ヴォーサゴ老、捨て身などらしくない……」
「この場で適切なのは儂等であろう。あの獣人共は弱すぎるし、貴様等はこの先やるべき事があるだろう? ならば……」
肯定し、同調するようにスーは瞳を伏せた。
身寄りの無かった孤児として自身の面倒を見続けてくれたヴォーサゴへ恩を返す為に。
彼女はこの場で死すことさえも、了承していたのだ。
無論、ヴォーサゴ自身もこの場で死ぬ積もりなのだろう。
足止めという、犬死にの形で。
「……ご子息には、会われないのですか」
引き留める為に、クロセールはそう言った。
嘗てのギルド崩壊の件で自身はあの男と対峙した。ヴォーサゴの息子である、グラーシャと。
そして全てを知り、この道へと歩んだのだ。彼等の対峙はクロセールにとっても意味のある事だ。
「奴は…………」
ふと、布地に隠された老父の双眸が瞼に覆われた気がした。
全能者と言葉を交わし、彼の物の意図故にと動き、然れどと叛してきた老父が。
この場で死すと迷い無く述べたその老父が、瞼を。
「儂を恨んでおるよ」
こつり、と。
杖突と共に樹木が乱舞し岩盤が浮遊する。
正しく天変地異と呼ぶに相応しい、異様な光景だった。
だが、その中には既に黒騎士の姿はない。
いや、語弊があるだろうーーー……。樹木の盾も岩盤の壁も、全て斬り伏せられたその場所に黒騎士の姿はないと言うべきか。
それとも、ヴォーサゴとスー、そしてクロセールの眼前にその姿はあると言うべきか。
その両足を構え、大剣を振りかぶった黒騎士の姿があると、言うべきか。
「なーーー……ッ!!」
誤算だった。
あのダリオですら、溺手で倒したあのダリオでさえ、本来の役目は潜入。
所詮戦闘など彼女にとっては余興でしかなかったのだ。暇潰しでしか、なかったのだ。
それに対しデューは、その[傲慢]は違うことなく、戦闘を本分とする。
それこそ大罪の称号を模した者達の中でも頂三に入る実力を持つ者として、彼等を捻り殺すことなど、余りに容易く。
「乖離の鎌!!」
黒騎士の大剣が老父と女性の身を砕き潰す刹那。
豪風の盾がその身を弾き飛ばし、自身さえも天空へ吹き上げた。
数多の瓦礫を、雲を、塵を、天上を。限界、限度、限上、全て突き破って。
族に成層圏と呼ばれる、常人であれば即座に凍り付き、吐息一つさえ赦されぬ空間へと、吹き上げたのだ。
「……足掻きますね」
「やられてばっかだし、少しぐらい良いトコ見せときたいのだが、どうだろう」
豪風の鎌による斬撃はデューを斬り刻みはしない。
ただ、振り下ろす。その身を大地へと叩き付ける為に。
振り下ろされた、はずだった。
「何か、忘れていませんか?」
直後、フーの背筋を衝撃が折り砕いた。
臓腑が潰れ、骨々が突き刺さり、気管は流血に埋められていく。
その眼が見るのは首無しの馬。蒼炎の煙を靡かせる、首無しの馬。
「いつの、間に……!!」
「俺の一部ですから」
叩き落とされたのはフーだった。
その四肢を弾け飛ばすかのように刻まれる豪風の最中、彼女の意識はぷつりとキレ落ちる。
それでもなお追撃するように漆黒の大剣が迫り、フーの首音に刃の切っ先が宛がわれた、刹那。
「天陰・地陽ォオオオオオオオオオッッッッ!!」
デューの兜ごと大地が消し飛んだ。
比喩ではない。少なくともフーの視界に映る一体全ての地上が、泥でもすくい取るかのように消え去ったのだ。
一切の例外なく、一切の容赦なく、一切の躊躇、いや。
躊躇は、あった。
「……ズレましたね?」
一瞬にさえ満たぬ、刹那だった。
ただ彼女の頭を擡げたのは恐怖と後悔。そして、躊躇。
例え剣先一糸でさえ狂える物ではなかっただろう。否、戦人であろうともそれは戦いに関する物でさえ無かったはずだ。
然れどデュー・ラハン。その者に取ってはその刹那でさえ、絶対的な一撃を回避するには充分に足る物であり。
「ッ……!!」
スズカゼの四肢が飛ぶ。
大凡、鉄塊に近い大剣とは思えぬ速度の斬撃。
その威力は衣さえ裂き飛ばし、その四肢を容易く切り裂いたのだ。
最早、それは、蹂躙でしかなく。
「所詮その程度だ。所詮この程度だ。……それで神の器? 嗤わせますね」
焔と共に再生する手足。
同時に断ち切られる血肉。
鮮血が舞い、焔となりて、消えていく。
「闇に沈め、死に堕ちろ」
黒兜から溢れ出る黒炎が、囀るように慟哭する。
風切り音と首無し馬の嘶きが轟く中で、彼は、ただ。
「ーーー……災禍の中に、失せなさい」
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