少女の提案
静寂、などという言葉では生温いだろう。
王座謁見の間の空気は最早、絶対零度の粋に入っていた。
誰もが言葉を発することも、動くことも出来ない。
そんな凍り付いた空間を支配しているのは、たった一人の少女だった。
「…………」
彼女は頬から汗を滴らせ異常な喉の渇きに耐えて、その空間の中心に立っている。
皆の視線が自分に向き、皆の憎悪と興味が自分に向くという、異質な空間の中心に。
「要求は、何?」
そんな空間の氷を砕き割ったのは、メイアの言葉だった。
皆がハッと意識を取り戻したかのように、ナイフを突き付けられた彼女を見る。
メイアは今、命を握られていると言っても良い状況にあるというのに、ジェイド達と話していた時と変わらず平然と、そして冷淡とした表情のままだった。
「……要求は一つだけです」
「先程の獣人達の要求を呑め、と? まさかそんな下らない事を言うつもりじゃないでしょうね?」
呆れ果てた、メイアの声。
だが彼女の言う事はその場に居る皆が、ジェイド達ですらも想像している事だった。
いや、むしろそれ以外に何を言う事があるのだろうか。
彼等の目的は本人である語った。
ならば、部外者であるスズカゼが語ることなど何もない。
「いいえ、違います」
そう、語ることなど何もない。
だからこそ言える、だからこそ願える。
獣人達の望みを叶えるために。
「私が望むのは、第三街の自治を認める事です」
「……は?」
皆が皆、疑惑の声を口にする。
自治とは何なのか、そもそもどういう意味なのか。
スズカゼの、今まで気絶していたはずの少女の言葉など誰が理解出来ようか。
だが、そんな事は関係ないとばかりに眼光を呻らせる男の姿があった。
「……何を望むだとか、そんな事は関係ないんだよ。お嬢ちゃん」
その言葉を吐いた男は、ジェイドとハドリーを押さえ込んだ男は。
親の敵でも見るかのようにスズカゼへと刺すような視線を向けていた。
当然だ。守るべき主君に刃を向けられているのだから。
「君が刃を抜き、女王に向けた時点で話し合いも糞もない。君の行為は話し合いを通すための物ではなく、話し合いを終わらせるための物だよ」
言葉こそ温厚だが、その眼光には優し気な物は一切無い。
彼の両手の下に押さえつけられた二人は、もう抵抗の意思は見せていなかった。
いや、見せていなかったのではない。見せられないのだ。
先程まで自分達を抑えていた力の比ではない。
鉄すらも砕くであろうほどの怪力が彼等の頭蓋を軋ませ、脳を圧迫する。
このままではジェイド達の脳が変形し、命はそこで終わる事となるだろう。
「今、私の手元に居る二人。そして第一街と第二街の境界である東門で待つ獣人達。彼等の命を終わらせる事と君が今行っている行動を止める事……、どちらが手っ取り早いかな?」
そう、現状としてスズカゼが立っているのは人質を取った有利的立場ではない。
人質を取らざるを得ない、危機的立場なのだ。
兵士達はバルドの言葉からそれを理解し始め、段々と活気づき始める。
やがて彼等は足下に落とした武器を広い、スズカゼを逃がさないよう、王座謁見の間の出入り口を封鎖した。
「詰みだよ、お嬢ちゃん。女王の言葉とこの場に免じて切り捨てる事だけは勘弁しよう。だが、それ相応の罰は……」
「勝手に罪状を決めないでくれるかしら? バルド」
「……これは失礼、女王」
バルドはその場で顔を伏せ、何も言わずに手元の二人を抑える事に専念した。
言葉は途切れた空間には再び気まずい空気が流れる、が。
そんな中で、先程まで兵士の後ろに隠れていた小太りな男が一歩前へ出て、声を張り上げた。
高価な衣服を身につけたその男はぴんと背筋を伸ばして出た腹をたぷんと揺らす。
身なりからしてもそこそこ高い地位の人間なのか、何人かの兵士達は彼を守るように両端へと移動した。
「ですが、本来ならばこの行為は死罪です! そもそも、この状況から見てもこの精霊は獣人と手を組んでいたのでしょう! ならば人質の意味もないのでは!? その上で要求を出すなど甚だしい事この上ない!!」
「えぇ、そうね。大臣」
小太りの男、大臣の言葉にメイアは身体を動かす事は無く、視線だけをスズカゼへと向けた。
彼女の視界に映ったのはこの様な危機的状況にも関わらず、全く眼の光を失わない一人の少女の姿だった。
その少女の姿を見ると同時にメイアは口元を緩め、先程までの冷徹な瞳をゆっくりと細めていく。
「……だからこそ、聞くわ。精霊」
「じょ、女王!?」
「貴女だって馬鹿じゃないでしょう? こんな事をした相応の理由があるはずよ。少なくともそれを実現できると思った計画性も」
「……はい、そうです」
「メイア女王! そのような言葉を聞く理由はありません!!」
大臣は必死に進言するが、メイアは聞く耳すら持たない。
彼女の興味は最早、完全にスズカゼへと向いていた。
ジェイド達の言葉が有象無象でしかなかったように、今の彼女には大臣の言葉は有象無象のそれでしかないのだろう。
ぎゃあぎゃあと叫く大臣の事など気にせずに、メイアは自分にナイフを突き付けている少女へと言葉を掛ける。
「さっき言ったわね。自治、と」
「はい」
「自治……、つまりは第三街を独立国とする、という意味かしら?」
「……いえ、違います。私が提案するのは第三街はこの王国の属地のまま、簡単な政治や法律を自立させるという事です」
「つまりは法律を変えさせろ、と?」
「いえ、基本的な法律はこの王国に委任します。ですが第三街内部での法律と政治はこちらに委任していただきたいのです」
「……要するに貴女が言うのは第三街をサウズ王国属地のまま独立国家にしろ、という事ね?」
「はい。正しくは独立国家ではなく属地国家、つまりは植民地に近いかと」
「だけれど、その条件だと植民地は植民地でも王国と同等の植民地になるわよ?」
「はい。同盟国以下、植民地以上。それが私の望む条件です」
即ち、スズカゼの提案した条件はこうだ。
サウズ王国全体に関与しない法律、第三街内部でのみ行使出来る法律権の委任。
そして同じく第三街内部でのみ有効な自治政治権の委任。
これらの条件を元にすれば獣人達の扱いどころか、第三街は非常に豊かになる。
何故ならば第三街のみに限ればサウズ王国を相手にしての国内貿易が可能になるからだ。
国内相手の貿易ならば関税も無いし輸送費も全くない。
貧しい母親でも子供に与えられる食物ぐらいは購入できるだろう。
また、第三街内部での労働に限れば賃金も水準値に出来るし、自治による平和も手に入れられる。
スズカゼが提示した条件は獣人達の望みを叶える上で最適な、その上で王国にも損の無い条件だった。
「なりませんぞ! メイア女王!!」
大臣はその条件に声を張り上げて反対した。
当然だ。獣人否定派である彼等からすれば、これほど面白くない交渉はない。
彼は姫がジェイド達に言っていた、獣人達が壁である現状こそが至高と考えている。
獣人の事を嫌う彼からすればこの提案は悪案でしかないのだ。
「こんな精霊の言う事を聞いて何になります!? この精霊は我が王国を滅ぼす引き金となりましょう! そもそも、不詳の精霊をここに連れ込んだこと自体が間違いなのです!! この精霊が我が国に仇成す者の使霊ならば如何なさるおつもりか!?」
「……」
「女王! 聞いているのですか!? メイア女王!!」
「……ねぇ」
メイアのその声は、酷く冷たい物だった。
触れただけで切り裂かれそうな、絶対零度すらも凍土の底辺に引きずり込むような。
地の底から這い出るような、そんな声。
「ひっ……!」
その声は大臣の喚きを止め、彼の心底を凍り付かせるには充分だった。
メイアにナイフを突き付けているスズカゼでさえも、その声に心臓を鷲掴みにされるかのような感触を覚えるほどに。
兵士達ですらも、その場から動き大臣を制する事を忘れるほどに、その声は冷たかった。
「国が、どうしたって?」
「わ……、我が王国の為にも! 不詳の輩を!!」
「我が、じゃないわよ。……私のよ」
「も、申し訳ありません……!!」
彼女の一言で完全に大臣は萎縮し、そのまま兵士の壁の後ろへと下がっていった。
邪魔者を排除したメイアは再び目を輝かせてスズカゼへと向き直る。
耳元で飛んでいた羽虫を追い払った彼女は、再び目の前の玩具へと興味を持ち直したのだ。
「面白い提案ではあるわ。けれど、その提案はこちらにデメリットこそあれどメリットがない。獣人の力を増せば、さっきの大臣のように獣人否定派のような連中が騒ぎ出すもの。それは貴女達の暴動より遙かに厄介よ。権力を持った猿ほど面倒な物はないものね」
「そ、その点に関しては……、その…………」
「サウズ王国よりの依頼を請け負う、でどうだ」
スズカゼをフォローするように言葉を発したのは、ゼルだった。
王国騎士団長という立場でありながら、暴徒に味方する行為。
それはゼルという人間の立場を危ぶめる、最大級の行為でしかない。
それでも彼は平然と、当然のようにスズカゼへ助け船を出したのだ。
「現状、この国には外交問題や他国との交渉ごとなど、様々な問題がある。何処の国でもそうだろうが、問題は山積みだ」
「それを解消するのが対価、と?」
「……そうだ」
「ぜ、ゼル! 貴様、王国騎士団長という立場でありながら獣人に組するのか!?」
兵士の後ろに隠れていた大臣はゼルに対して不満を喚き散らすが、それもメイアの眼光によって一瞬で消え去った。
ゼルは前言撤回することも謝罪することもなく、ただメイアを見つめている。
彼の意思は、決して揺るがないようだった。
「デメリットとメリットの関係はこれで成立だろう。条件としても悪くないはずだ」
「獣人を外交面に出せば反発する国は必ずあるわよ」
「そうだな。精霊がそれを率いていれば、どうだ」
「……そういうことね」
「人間と精霊、そして獣人の三種族が共に手を取り合い暮らす平和な国。……他国への顔売りとしては充分じゃないか?」
「……フフッ」
メイアは小さく笑い、そしてパチンッと指を鳴らした。
彼女の美しい白指の奏でる音は王座謁見の間を流れ、そして消えてく。
スズカゼもジェイドもハドリーも、大臣も兵士達も。
ゼルとバルドを除く全員がその音を聞き、一瞬だけ夢現の中に意識を落とした。
「……あれ?」
いつの間にか、スズカゼの手からはメイアに突き付けていたはずのナイフが消えていた。
落としてしまったのかと周囲を見渡しても、ナイフの銀色は何処にもない。
メイアはそれを解っていたかのように優々と王座へと帰って行った。
「結構。精霊、名前は?」
「えっ……。……す、涼風 暮葉です!」
「スズカゼ・クレハ。貴女を第三街領主、及び伯爵の位に任命するわ」
彼女の言葉はスズカゼ本人だけでなく、兵士や大臣、そしてゼルやジェイド達までもを驚愕させた。
伯爵とは貴族階級であり、その中でもゼルの男爵より二つほど位が上だ。
決して気軽に、不詳の人物に与える物ではない。
しかもメイアは彼女を第三街領主、即ち第三街という自治地域のトップに任命したのである。
「異論は?」
「……な、ナイデス」
「よろしい。では、祝勝会の準備でもしましょうか?」
「アッ、イエッ、ベツニ……」
「それじゃぁ、さっさと第二街に行きなさい。貴女の国民が待ってるわよ?」
メイアはにっこりと微笑んで、組んだ足の上で指を交差させた。
彼女のそんな妖艶な姿は、既にスズカゼの目には映っていない。
故に、バルドの拘束から解放されたハドリーに後ろからに抱きつかれても、深々と頭を下げるジェイドの謝辞を聞いても。
右耳から左耳へと突き抜けて、虚空の彼方に消えていくだけだった。
《第一街東部・東門》
「姫よ」
獣のように鋭い牙と漆黒の体毛、そして黄金の眼光を持つ獣人。
彼はとある少女の前に跪き、その言葉を述べた。
「我等が姫よ。私は貴方に付き従い、この命を捧げましょう」
それは騎士が主君に誓いを立てるが如き行為。
黒豹の獣人は自分の肩ほどまでしか背の無い少女に、ごく普通の少女にそれを立てたのだ。
「この身体は貴方が為に」
獣人は少女へと手を差し伸べ、彼女もそれに答えるように鋭い爪のある掌へ自らの手を置いた。
それと同時に彼等を囲んでいた数百以上の獣人から歓声が巻き上がり、拍手の嵐が吹き荒れる。
獣人は口端を緩め、照れくさそうに白い牙を見せた。
少女もまた、にっこりと微笑んで柔らかく瑞々しい唇を開く。
「どうして、こうなった?」
読んでいただきありがとうございました