弱者の動機
「ーーー……ッッ!!」
間一髪、刹那の回避。
豪腕の一撃は頬端を擦って、空を切る。
剛脚の一撃は直撃こそするが、ハルバードの柄によって受け流される。
「……ほォ!」
デイジーの実力は四年前に比べて格段に向上していた。
嘗ては暴食の獣の舌にさえ触れられない、ただの空虚だった。
然れど今は舌先一寸、僅かに触れられる程度には、その力が合った。
「お前、その動きは……」
僅かに、回避。
僅かに、往なし。
その技の数々をデモンは知っていた。忘れるはずなどない。
この回避と往なしは、スズカゼのーーー……。
「はァッッ!!」
思惑の隙間、一瞬にも満たぬ時。
デイジーのハルバードがデモンの指先を切り裂いた。
所詮、傷とは言えぬような切り傷。戦況を左右するなど烏滸がましいと思えるほどの軽傷。
それでもデモンは嗤う。嘗ては視界の隅にさえ入らなかったこの女が、自分を傷付けた。
今この女は、戦うに相応しい存在だーーー……、と。
「貴様を、この先には!!」
吹き飛んだ。
ハルバードの刃が、軽甲の破片が。
回避も往なしも、刹那の攻防も。
全て破壊する。全て喰らい尽くす。
最早実力云々以前に、圧倒的過ぎた。ただ獣は防御だの回避だのを捨てて、殴り飛ばしただけなのだ。
その一発だけで、勝負が付いた。
「悪くねェ。上がり幅だけ見れば、上等だ」
「か、ぁっ……!」
胃液が垂れ落ち、僅かに紅色の混ざったそれが草気を濡らす。
血肉が抉れ、脇骨が砕け、臓腑が潰れ、嘔吐する。
一撃で彼女は無力化され、いや或いは生命の危機にすら立たされた。
それでもデモンからすれば、それはただ羽虫を払うような一撃に過ぎない。
繰り返そう、圧倒的だったのだ。彼等の実力の差は。
「……だが、それだけだ」
拳の先から零れ落ちるように、彼女は崩れていく。
見開かれた眼に映る光景が、全て遅く、鈍く。
ただ自身の無力を噛み締める暇だけが、そこにあった。
「さて」
デモンの眼に映るのは小さな城壁。
あの程度であれば自身の拳撃一発で事足りる。その上に居るであろう、狙撃者も。
先程からある喚かしい様子を見れば裏手から逃げていると見える。
別にそれは構わない。自分は、強者と戦えればそれでーーー……。
「まだ、だ……!!」
剛脚を掴む軽甲纏われし腕掌。
力強く、いや、それだけの力を込めて、彼女は引き摺っているのだ。
今し方圧倒的過ぎる力を見せつけた獣人を。
「……俺ァよ、本気で挑んでくる奴には相応の敬意ってぇーのを払うようにしてる。そいつと真正面で戦うのは楽しいからな」
デモンは手を払うことなくその場に屈み込み、地に伏す彼女を覗き込んだ。
この女は弱い。上がり幅も殆ど使い果たしたような、残りカスだ。
今が彼女の到達点なのだろう。後残る伸び幅を使い果たしたとて、今と大して変わりはしない。
端的に言おう。コイツは、弱過ぎる。
「だけどよ、お前はどうだ? ここで戦っても俺が拳を振り下ろせばそれで終わりだ。命を賭ける意味もなく、死ぬ。それでもテメェは挑むのか?」
「それが、私のやるべきことだ……!!」
普段のデモンならば彼女へと本気の一撃を撃ち込んだだろう。
尤も、今の彼の拳は動くことさえしないのだが。
「前よォ、お前と同じような奴が居たんだわ。ラウ・グータムっつー男でよ、まぁ、今のお前と良い勝負する程度の実力だったんだが……」
怒気に、歪む。
今の今まで嗤っていたその男が、眼を黒く染め上げるように。
牙を剥いて、羅刹が如き憤怒をその身に刻み。
「テメェとアイツは比べるまでもねェ。自殺に人を使うんじゃねぇ。自殺に、戦いを使うんじゃねぇ」
何も、言えなかった。
抗議の眼さえも、その男の殺気に溢れた憤怒に押し殺される。
この一年、我武者羅に自分を鍛え続けてきた。腕が動かなくなろうと血反吐を吐こうと、鍛え続けてきた。
スズカゼのように、誰かを支えるために。ゼルのように、誰かを護る為に。
ーーー……そして、彼女と全てを決着させるために。
その為に、頑張ってきた、はずだ。
「テメェの眼にあるのは怨恨だ。裏切り……、ダリオの奴か? アイツへの復讐心か?」
牙は憤怒から、侮蔑へ。
デモンからすれば、眼前の女性は既に敵から羽虫となっていた。
自分の言葉一つ一つを受ける度に、デイジーが弱っていく。
脆く、崩れていく。
「復讐だろうが護る為だろうがよォ、それでも良い。戦いの為の動機なら何でもなァ……、けどよォ」
押し殺すような嗚咽と共に引き上げられる襟首。
獣の怒号を叫ぶかのような眼光を前に、ただ彼女は口端を縛ることしか出来なかった。
痺れるような恐怖心さえも、今の彼女には些細事でしかない。
それを感じ取られない程に、彼女は。
「それを成す力もねェ奴が、やろうとしてんじゃねェよ」
襟首は離され、同時にデイジーが崩れ落ちる。
羽虫は羽ばたきを止めた。削がれた興を取り戻すかのように、デモンは踵を返す。
あの城壁の先へ向かうべく歩き去る彼を、デイジーは止めようとしない。いいや、出来ない。
彼女に抗う理由など、最早、ないのだから。
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