断罪の覚醒
「…………」
その者は厚氷の張った水面に釣り糸を垂らし、何を言うでもなく中々沈まない浮具に眼をくれていた。
本来であれば先日の失敗を踏まえ、新たな計画を立てるところであろう。
見回りや偵察などを行っても良い。或いは聞き込みも良いだろう。
尤も、それは当の標的が真後ろに居て、先程から自分を会食に誘ってこない場合に限るのだが。
「で、どうかな? ジェイド。僕の部下が聖堂騎士団副団長に就任したから会食を開くんだけど……」
「……貴様、俺の立場が解っているのか?」
「あぁ、大丈夫! そこはほら、僕の友人って事にして……」
「そういう問題ではない」
浮具が沈むと共に、[闇月]と呼ばれる男の腕が跳ね上がる。
同時に厚氷の水面に彼等二人は容易く飲み込もうかという化け物が顔を打ち付けてから再び水面に沈んでいくのだが、動揺はない。
釣りを始めて既に数時間。同じ事が何十回とあれば慣れるのも当然だろう。
「……俺は暗殺者だ、貴様と教皇を殺そうとした。そんな男を招いて何になる」
「いやでも、ほら。各国の状勢とか色々教えて貰ってるじゃないか。サウズ王国のお姫様が凄い天才だとか、ベルルークの少佐がとんでもない実力者だとか……」
「少し表に出れば……、いや、この国の盾である貴様に言うのは酷か。だが、だからこそ我々の関係性は表に出せる物でもないだろう」
「心配しなくても僕と君とは剣を一度二度交わらせた仲だよ。いつまでもね」
「ならば、良い」
再び浮具は水面に浮かぶ。
何が釣れる訳でもなく、ただそれは浮き上がりて。
結局、[闇月]が会食の席に現れることは無かった。
当時聖堂騎士団副団長に就任したラッカルが残念がる余りキサラギの服を引っぺがして大変な騒ぎになったのは、まぁ、懐かしい話だろう。
「……ッ」
それから間もなく、彼は暫しスノウフ国を離れる事となる。
他国からの侵略に対し頭角を現し始めたラッカルやキサラギ、充分な実力を身につけてきたガグルとピクノ、そして竜騎士達の参戦により自国の防御が固まったこと。
そしてもう一つ、ある男からの誘い故に。
「期待外れだな」
だが、実際のところはどうだ。
当時大佐であり、既に四天災者相応として君臨していたその男を前にダーテンは手も足も出なかった。
元より無理があるのだろう。種族を超越した怪力とは言え、それは所詮獣人という存在の範疇でしかない。
彼の物は種族だの生物だのと、そんな物は既に卓越した存在だ。
勝てるはずなど、無かったのである。
「……この地もそろそろ枯れ果ててきたな。見栄えが悪くていかん」
その男が一つ歩む度に木々は燃え果て、大地は枯渇する。
まるで死神だ。命を喰らう、化け物だ。
巷では彼や自分を天災に匹敵する者として四天災者などと呼んでいるけれど、自分がこんな存在と同等であるはずがない。
あっては、ならない。
「で、いつまでそうしているつもりだ? 地に伏すだけならば雑兵でも出来る」
「……解らないね、イーグ・フェンリー。どうして君はそこまで戦いを望むんだい?」
「それが俺の生まれながらにしての宿命であり運命だからだ。俺はその為に生き、その為に死ぬ。そこに有象無象の入る余地などない」
「哀しい、人生だ」
ダーテンの拳撃が彼の足下を穿つ。
否、砕く、否、砕くですら無い。
それは最早地割れだった。彼を周囲とする視界一帯の岩盤が抉り返ったのだ。
無論、イーグとてそのような場所で体勢を保つのは用意でない。彼は幾つかの瓦礫に飛び移りながら体勢を立て直し、その拳に火炎を纏う。
獣の拳が岩盤から引き抜かれた直後、その者の頭蓋は火炎の拳に叩き割られた。
自身の顔面を豪腕が穿っていた位置に埋められながらも、ダーテンは止まらない。
両手で跳ね上がるように叫び、驚くべき跳躍力でイーグから距離を取ったのだ。
「……ーーーッ!」
「確かに貴様の剛力は眼を張る物がある……、が。所詮はそれだけだ。高が力だけで何が出来る? それは、貴様の武器ではなかろう」
「何を、知った風に……!」
「解るさ。貴様が怯えているのが、その懐に入っている物に怯えているのが……」
図星。
今、ダーテンの懐にあるのは天霊の指輪だった。
嘗て[闇月]と戦った時に現れた異変。精霊を使霊とするラッカルより既に理論は耳にしている。
然れど、使って良いのか? フェアリ教という宗教を身に嘗ての闇から這い出た自分が、それを顎で使うような真似をしても良いのか?
使霊などと言って、ただ奴隷のようにーーー……。
「使わねば、死ぬだけだ」
イーグの背に現れる紅蓮の片翼。
刹那にして理解する。それが、自身の剛力で防げる物では無いことに。
灰燼一片さえ残さず焼き殺す為の一撃であることに。
「俺を愉しませろ、獣人」
「ーーー……ッッ!!」
それが、その刹那こそが、四天災者[断罪]の覚醒。
端的に結果だけを述べるであれば、イーグの一撃が放たれる事はなかった。
[呪縛]チャペル。幼子の姿をしたその天霊が動きを止めたからだ。
周囲一体の魔力ーーー……、生命力さえも、呪い、縛って。
「これでこそ、か」
イーグは容易く呪縛を振り切り、踵を返す。
彼にとって追撃は出来なくもなかった。そのまま火炎の拳撃を叩き込めば目覚めたばかりの天霊程度、ダーテン諸共殺せただろう。
しかし彼は期待したのだ。この男が何処まで成長するのか。
故に、彼は思わなかった。まさかその存在が自分と同等まで上り詰めてこようなどと。
そしてその頃からだろうか。彼の物が罪を断する物、[断罪]として呼ばれ始めたのは。
四天災者[断罪]として、呼ばれ始めたのは。
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