転びし者と立ち上がりし者
【大監獄】
《第四階層・監獄》
「……」
青年は暗闇の中に居た。
いや、灯火の明かりはあるし、看守の歩く音も聞こえる。
それでも彼は暗闇の中に居た。誰一人として相容れぬ暗闇の中に。
「……あぁ」
解っていなかったのは、自分だ。
幾年、彼女を見てきた? 幾年、彼女と共に過ごしてきた?
それなのに解っていなかった。彼女という人間を、解ってなど、いなかった。
彼女は強い。けれど、誰よりも弱かった。
強いのは何も失いたくないから。弱いのは何かを失えないから。
彼女はずっと耐えてきたのだ。四年という日々を、ずっと、ずっと。
「……何で、俺は」
何を見てきた。今まで、いったい何を。
結局、俺はあの人の背中を追っているだけだった。目の前に回ったって、あの人の瞳を見てなどいなかった。
誰も彼もが、彼女という存在だけでーーー……。誰も彼もが、彼女という一人の人を見ようとしなかったのだ。
結局、自分が見たのは[獣人の姫]であり[紅骸の姫]であり[災禍の姫]だったのだろう。
ただ、それだけだ。たった、それだけだ。
「俺は……!」
彼の眼は掌に、闇に、深淵に。
思いは届かず、いや、思いさえも存在はせず。
果てしなく、自分は何処までも、愚かでーーー……。
「想いが届かないのであれば」
彼の漆黒に踏み込む言葉。
その少年は彼の眼前に居た。
全能者ーーー……、[全属性掌握者]ハリストス・イコンは。
「届くまで届け続ければ良いのではないですか?」
面を上げた彼の瞳に、それは映る。
たった一人の少年。然れど本能的に理解出来る。
この少年は今まで出会ってきたどんな存在よりも恐ろしく、悍ましい。
「ユキバと契約を交わしましたか、少年」
「……貴方は」
「ならば今一度、悪魔と契約を交わしてみませんか?」
彼が差し出したのは一つの石だった。
いや、それを石と称すには、余りに、無理がある。
禍々しく、美しく、純粋に、紅く。
「これは……、嗚呼、しまった。名称を考えていませんでしたね。じゃぁ、そうですね、うん。賢者の石とでも名付けますか」
彼の掌から零れ落ちるように渡される、一個の紅石。
シンはそれを手にした瞬間に確信する。暗闇が紅色に変わっていくのを。
刹那にして全てが血液が如き真紅に変貌していくことを。
「この賢者の石には力が込められています。神が人に与えなかった力が」
少年は表情一つさえ変えず、ただ呟いていく。
いや、或いはーーー……、嗤っているのか。
「これをスズカゼさんに与えてください。そうすればまた、彼女は立ち上がれる」
「……駄目ッスよ。どんな力でも、どんなやり方でも。もう、彼女は立ち上がれない」
「ならば手を引きなさい。無理矢理にでも立たせなさい」
「アンタは」
彼の柔く、脆い手が少年の襟首へと伸びる。
引き倒すように握られたそれも、彼の力では自身の半分ほどしかない少年さえ倒すことは出来ない。
ただ虚しく、ただ無力に。
「何処まで、あの人を酷使するつもりだ……!? あの人を、何処まで苦しめるつもりだ!!」
「……休ませてあげたい、とでも?」
「だってあの人は、ずっと、戦い続けて……!!」
「彼女はまだ征道の途中だ。その最中で転び、立ち上がろうとしていないだけです」
「だとしても!!」
「だとすれば」
その瞳は、ただ純朴に。
一縷として歪まず、一縷として濁らず。
彼の言葉は決して、変わらない。
「だとすればこそ、彼女を立たせるべきだ」
転んだまま立たなければ、いつしか人は腐り落ちる。
今まで歩んできた道に関係無く、誰一人としてその者に見向くこともなく。
路端の石ころと成り果てる。立たなければ、人は有象無象となる。
「貴方は彼女を愛し、貴方は彼女に救われた。貴方は立たされた。ならば、彼女も立たせなさい。転んだままでは土しか見えない。彼女が立っていた時に見ていた陽の光は見えない。……太陽の光なくして、人は立ち上がろうとは思えない」
だから貴方が立たせ貴方が見せなさい、と。
彼はそう言い残し、その姿を消す。
シンが掴んでいたはずの襟首は霧散するように溶け、果てる。
「……何で」
何故、世界はそこまで彼女に厳しいのだ。
思い通りにさせてあげれば良い。彼女が笑えるならそれで良い。
どうして、運命は彼女を蝕む? どうして、運命は彼女を苦しめる?
彼女が何をしたというのだ。彼女が何であるというのだ。
彼女が、いったい何の罪を犯したと言うのだ。
「…………何でなんだよッ!!」
シンの拳が地面を殴る。
最早力無きその刃が何かを穿つことはない。何かを斬ることもない。
ただ掌に包まれた真紅の石だけが彼の血涙を喰らい、輝いていた。
「……この、石を」
奴は言っていた。神が人に与えなかった力だ、と。
この、賢者の石というのがその結晶であるのなら、喰らうことで力を得られるだろう。
自分も彼女と肩を並べられる。彼女を、救うことがーーー……。
「そうして太陽の光を見るのは、俺だけか……?」
自分は何を望んだ?
自分一人で歩いて太陽の光を見ることか?
スズカゼを立たせて太陽の光を見せることか?
違う、違うだろう。そうじゃないはずだ。
望んだのは、二人で太陽の光を見ることだったはずだ。
「……あぁ、畜生」
転んだのは自分も同じだ。
だから、立とう。立たねばならない。
あの人にまた見せたい。太陽の光は美しいのだ、と。
そう、彼女に笑って、欲しいからーーー……。
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