悲願成りて
【大監獄】
《第五階層・廊下》
「……」
暗い。腕を伸ばせば、指先が見えぬほどに。
足下でさえも、蝋燭より弱い焔が点していなければ何一つ見えないだろう。
それ程までに暗闇。漆黒過ぎる程に、黒。
「……ッ」
いや、それ以上に恐れるべきは殺気。
この大監獄の最下層に投獄されている連中の放つ殺気が、己の背筋を凍らせる。
流石と言うべきか、それとも悍ましいと言うべきか。
大監獄の最下層に封じられた連中だ。余り関わり合いになるべきではないだろう。
「お、おい! 出してくれ!!」
牢の鉄柵に飛びついたのは猿の獣人だった。
痩せこけた頬を必死に裂くが如く伸ばしきり、何度も何度も鉄柵を揺さ振っては金属音を掻き鳴らす。
闇に浮かぶその眼に伝う充血もあって、その者の様子は余りに、余りに恐ろしい。
「私は! ちょっと話が違っただけなんだ!! 騙すつもりなんか無かった!! 私は、私は悪くないんだ!! 私はぁっ!!」
シンは眼を逸らしつつ、奥へと戻っていく。
咎人が投げ込まれるこの世界に彼女は居る。この暗き世界に、彼女は。
焦燥。自身の心が急かす。速く助けろ、と。ただ虚空に叫ぶように。
「そうやって、人は己を責める」
少年は彼の背中を眺め、呟く。
例えその眼前を歩んでいても気付かぬであろう、言葉で。
聞こえるはずもない存在が、ただ呟く。
「幻想は常に己を切迫させ、追い詰める。そこに意味などないのに、在るべき幻想を願い続け、人は幻想と成る」
暗闇へ喰らわれる背中を見送り、彼は微笑んでいた。
幻想は叶わないから、存在しないから幻想なのだ。
君が見るその幻想は、さて、どのような意味を持つのかーーー……、と。
「……?」
ふと、シンは振り返る。
其所に誰かが居るはずなどないけれど、現に誰も居ないけれど。
誰かが居るような気がした。其所で、誰かが嗤っているようなーーー……。
「いや……」
そんな事を気に掛けている暇はない。
最奥は直ぐ其所にあるはずだ。左右の牢の感覚も、段々と狭くなってきている。
いや、そうではない。奥に進めば進むほど牢ではなく鉄扉となってきているのだ。
厳重に、例え暗闇であろうと外界の存在を断つが如く。
「……っ」
それは、あった。
一つ、明らかに魔力での封が施された鉄鎖。
一つ、その鎖の中に通じる怨々しい闇を放つ柱。
そして、最奥にある、黒金の扉。
「此所に、居る」
触れれば腕が消し飛ぶであろう多重結界だ。
恐らく、嘗て見た[封殺の狂鬼]のそれよりも強力で、強固だろう。
自分には解けない。開くことすら出来ない。
自分だけ、ならば。
「……皮肉だな」
この結界を造ったのも、この大監獄を造ったのも、この機会を造ったのでさえ、ユキバ・ソラだ。
彼女を封じる為に全てを整えたのはあの男達であり、彼女を封じたのもまたあの男達である。
然れど、彼女を救うのもまた、あの男の力あってこそなのだろう。
「魔剣……!」
彼の衣服の中より出でし、一振りの剣。
それは牢獄に施された封より禍々しく、悍ましく、恐ろしい。
或いは生命の根幹を愚弄するが如き、或いは人々の息吹を踏み躙るが如き、剣。
「ーーー……一文字」
彼の斬撃は空を斬る。
音はなく、衝撃もなく、感触もない。
然れどシンの眼に歪みはなく、焦りは無い。
ただその一閃が奔った軌跡だけを瞳に刻み、刃を反す。
「景斬」
扉は、緩やかに。
水球が水面に沈むように、緩やかに。
鉄鎖も支柱さえも、全てが。
ただ緩やかに、音すら無く、滑り、崩れる。
「……っ」
鼻腔から歯茎に掛けて、流血。
いや、実際は唾液に血の臭いが混ざっているだけだ。
一太刀であれ、この身を蝕むには充分過ぎる。
然れど未だ死せず。この身、未だ夢叶えずして、死ぬことや無し。
「スズカゼさん!!」
扉の奥、一室。
鉄鎖が音を立てて掻き鳴らされる。
彼は破片を踏み躙り、その者へと駆け寄った。
眼から輝きを失い、四肢から自由を失い、その身に魂を失った、彼女の元へと。
「スズっ……」
彼は、言葉を失う。
スズカゼの参上を理解していない訳ではなかった。
ボロボロになった彼女の姿を想像していない訳ではなかったし、覚悟していない訳でもない。
それでも、それでもだ。
彼女の瞳が、何も捕らえようとしない瞳が。
シンという一人の、彼女を愛した男にとっては。
どうしようもなく、悲しかった。
「…………スズカゼ、さん」
それでも、駄目だ。
今、自分はムー達の強力のお陰で此所に居る。
彼女達が身の危険を省みず協力してくれたから、此所に居る。
だから、駄目だ。立ち止まれるはずなどない。
「帰り、ませんか? 俺は、いや、俺達は貴方を迎えに来ました。こんな所に居ないで、帰りませんか……?」
必死に絞り出した声に、彼女は瞳を向ける。
何も映らない、濁り切った瞳を。
自身を救いに来た青年の姿すら映るはずもない、瞳を。
「貴方なら、また、出来ますよ。皆を救える! 皆を助けることがーーー……」
ふつり、と。
少女は垂らすように、その言葉を述べる。
シンは何も言えなかった。何も、返せなかった。
彼女の言葉に、その言葉に。
「私を、殺してくれませんか」
その言葉を前に、彼は、何もーーー……。
読んでいただきありがとうございました




