粘土と皿
【大監獄】
《最下層・第九百七十二監獄》
「……で? 小娘は何と?」
老父は木杖で顎を支えながら、落ち着いた声で問う。
彼の問いに対するのは褐色の肌を持つ一人の少年。
鉄球に腰掛け、細い指を重ね合わせる、少年。
「いつも通り。何ら変わりありませんよ」
「それは残念じゃのう。期待していたのだろう、あの小娘に」
少年は口端を僅かに緩め、何処か残念そうに、そして何処か嬉しそうに微笑んだ。
残念と老父は言う。然れどその表情から残念の二文字はどうにも見えない。
事実、彼は残念だなどと思ってはいない。いや、むしろ、喜んですらーーー……。
「……嬉しそうじゃな」
「貴方以来なんです、僕とまともに話が出来るのは」
「だけ、か?」
まさか。
そんな風に笑みながら、彼は足を組み直す。
包帯の巻かれた足は僅かな擦音を零しながら、包帯を弛ませた。
「……彼女の瞳には焔がある。いや、火種と言うべきでしょうか」
「ほう。奴の瞳に沈み揺らぐそれを見たか」
僅かに、老人の杖が切っ先を地面から逸らす。
傍目に見れば位置を直しただけだとも思えただろう。しかし、少年は知っていた。
彼から擦ればその少女が少なからず因縁の有る存在であることを。
ーーー……いや、それを言ってしまえば、自分と彼女も、因縁を超えた、因果で結ばれているのだけれど。
「確かに彼女はツキガミ復活のために用意された存在です。例えるならば器だ。肉も酒も、それを喰らう為の道具も、人も、場も用意された上でーーー……、粘土を捏ねて作られた、器だ」
「器とは滑稽な例えだ。意思を持たぬ皿が焔を点すか? 言葉一つさえ紡げぬ粘土の塊が、喰らう者を殺せるか?」
「その欠片は、人の指を切りますよ」
老父は一度大きく瞳を見開くと、くふっと吹き出すように嗤った。
続く嗤叫に連られるように少年もまた僅かな笑いを見せる。
虚空の牢屋に、蝋燭一つの灯火しかない世界の中で。
老父と少年という、正反対の二人がーーー……、否。
齢としては逆に正反対な、二人が。
「ふ、はは。そう、そうだ、そうだな。確かに欠片で喰らう者は傷付こう! 或いはその欠片で首筋を切れば、喰らう者は死せよう……」
「しかし、それには皿を割る物が居る」
「その割るというのは……。粘土に戻すということか? それとも、その形を壊すということか?」
「後者ですよ。僕は見てみたい。彼女が復讐という形から取り払われ、憎悪や悪意さえ打ち捨てて、ただ純粋に生きる様を」
「……それは、傲慢かね? それとも強欲か。否、己の手を下さずと見守るのは怠惰であり、その結果を欲するのは嫉妬だ」
「そうですね、これは罪だ。私は牢に囚われし今、再び罪を犯し咎人となるでしょう」
少年は髪を掻き上げ、天上を見上げる。
幾多の染み、汚れ、煤がこびり付いた薄暗い天上。
然れどその中に蠢くように、嗤う影。
「咎人か。やはり貴様と話していると飽きないな。どうしようもなく楽しいぞーーー……、ハリストス・イコン」
「えぇ、私もですよ。……ヴォーサゴ・ソームン」
彼等は嗤う。
言葉を交わし合い、嗤う。
粘土は如何に固まるか、欠片は如何に割れるか。
彼女という火種は再び焔となるかを思いーーー……、嗤う。
【大監獄周辺】
「…………」
彼は、佇んでいた。
荒野ーーー……。大地は枯れ果て、木々は萎れ、ただ吹き抜ける風と照りつける日差しだけが存在する荒野。
否、違う。その先にある建物。巨大な、石造りの塔のような建物。
「……スズカゼ・クレハ」
白銀の刃が大地を擦り、火花を散らす。
彼の爪先が荒野を越えてその塔へ伸びることはない。
ただうろうろと、荒れ果てた荒野の前を彷徨くばかり。
「何処に……、居る……」
白銀の刃が亀裂に挟まり、男は剣に引かれるが如くその場へ倒れ込んだ。
指先が渇く。血肉は綻び、魂は苦悶の悲鳴を上げている。
何度感じただろう、この限界を。いいや、今では最早、苦しみはない。
このまま瞳を閉じ、全てを捨て去ればどんなに楽だろう。この渇きが、快楽に変わるのなら、それはどんなにーーー……。
「……ま、だ」
だが、駄目だ。
まだ倒れる訳にはいかない。ここで倒れたら、あの人はきっと死んでしまう。
何の為に力を得た。何の為にこの一年間耐えてきた。
この身を蝕む魔から、何の為に、何の為にーーー……。
「……お、おいお前、大丈夫か?」
そんな彼の身に影を作り、覗き込む一人の獣人。
熱射を遮るローブを身につけたその獣人は彼の姿を見ると急いで仲間の元へと走り、事情を説明する。
一人目と同じく駆け寄ってくる獣人達を前に、彼の意識は次第に薄れていった。
安堵か、或いは諦めかーーー……。この身を沈めるのは何なのだろう。
それを理解してはいけない事は解っている。理解すればきっと、自分は日和ってしまう。
あの人を助けるまで、あの人を救うまで自分に安息は要らない。自分に平和は必要ない。
あの人の為ならばと修羅に墜としたこの身。天を捨て、ただの修羅となったこの身に。
そんな物は、必要ないのだ。
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