葉巻に揺らめく灯火は
【雪原】
《ベルルーク軍・臨時本部》
「…………」
変動する戦場に、ベルルーク軍臨時本部は酷く慌ただしく動き回らざるを得なかった。
兵士達は叫び、走り、冷寒なる外気と叛す熱気に覆われている。
乱雑する資料、或いは飛び回る紙片の中、彼は静かに瞼を閉じていた。
両手を顎の前で組んで、葉巻を加える事もなく、静かに。
「……来た、ね」
豪風、舞う。
それは雪幕の中の熱気を遙かに超す灼風。
バボックの居る雪幕だけではない、他の雪幕も吹っ飛ばし、或いは積雪さえも溶かし尽くす灼風の中、彼は降り立った。
灼炎の牙爪を大地に突き立て、降り立った魔人は。
「やぁ、イーグ」
「……我々の負けだ。指揮官級は全員死んだ。ネイクの魔力もオートバーンの魔力もヤムの魔力もワーズの魔力も、消えた」
「あぁ、知っているよ。全く自分勝手だ」
バボックは懐より葉巻を取り出し、イーグの前に一本を差し出した。
彼がいつも愛飲している物だ。禁煙前から、ずっと。
イーグは何も言わずその一本を受け取り、牙の間に挟むと静かに背を屈めてバボックの前へ葉巻を差し出す。
バボックは懐よりそれを取り出そうとした、が。静かに首を振り自らの葉巻を静かに差し出した。
「……四天災者に火を付けさせるか」
「上官命令だよ」
「良い身分だ」
「上官だからね」
曇天へ舞い上がっていく白煙。
吹き抜ける虚空の風は彼等の白を攫い、消していく。
やがて空の雲となるであろう白色を、音もなく。
「……君なら撤退せずとも勝てただろう?」
「確かに、俺は勝てただろう。だが、ベルルーク軍は負けていた」
「だから撤退した、か。全く、ネイクもオートバーンも……、いやワーズ君もヤムも、ヨーラも、本当に自分勝手だ」
彼の苦笑は、微笑みに近い。
敢えてそこにイーグの名前を入れなかったのは、彼のささやかな悪意。
自己満足に全てを費やさず、ただ此所に戻って来た自分勝手な忠臣への、ささやかな悪意。
「……イーグ」
もう一つだけ。
彼という、バボック・ジェイテ・ベルルークという男が、望む。
あと、たった一つだけの悪意。
「君が望む死は」
懐から出したのは一つの銃。
一発だけ弾丸の込められたそれを、イーグの心臓に向け、放つ。
「こんなにも近くにあった」
曇天に囀る弾丸の音。
消え去り、溶ける、音。
「……やっぱり、まぁ、駄目だろうね」
四天災者として、その男に弾丸が到るはずなどなく。
銃口の目の前で、灼炎に溶けていく弾丸を前にバボックは何処か残念そうに息をつく。
イーグは自身の焔の中で溶けていく鉛を掬い、指の狭間から落ちる様を、眺める。
「……そうか」
人としての死ではなく。
四天災者の死ではなく。
「そうだな……」
イーグ・フェンリーとしての死は、此所にあった。
願い、欲し、望み、信じたそれは。
どうしようもなく近くにあった。
「俺は生まれるだけで良かった」
四天災者[灼炎]としての生を終え、イーグ・フェンリー将軍として生まれるだけで良かった。
自らを産み落とした母を、村を、焼き尽くして生まれ。
幾多の殺戮に身を窶した生涯に幕を閉じて。
仲間の居るベルルークという国に再び生まれるだけで、良かった。
「……人間の可能性、か」
自分が捨て、見下し、絶望したその可能性。
あの男がそれに縋った理由が今になって漸く分かった。
この切り落とされた片腕が、何よりの証拠なのだろう。
「全軍に通達」
バボックは踵を返し、イーグに背を向ける。
ただ空へ上る白煙と、曲がることなき背筋だけを見せて。
「今、この時をもってベルルーク軍を解体とする。各員は相手に最後まで抵抗するなり白旗を揚げるなり、好きにしたまえ。……あぁ、何なら私の首を持って行くと良い。白旗を赦してくれる土産程度にはなると思うよ」
彼の命令は、その場に立ち尽くす数百人の兵士達へ確かに行き渡ったはずだった。
然れど誰一人として動かぬ。誰一人として、何も言わぬ。
否、一人だけ。バボックの隣で指揮通達を行っていた一人の兵士だけが、前へと歩み出る。
「バボック大総統は、如何なさる御積もりです」
「後始末を、ね。何、好き勝手動いて好き勝手生きて好き勝手掻き回したんだ。これぐらいはしないとケジメもつかないさ」
「ならば私はお供しましょう」
「……自分で言うのも何だが、犬死にだよ?」
何を今更、と。
兵士は苦笑するように口端を崩し、肩をすくめて見せる。
彼は両足を揃え、その掌を頭に添えると、大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「後悔はありません! 私には生きているという実感があった! 規定された幸せの中で死んでいるように生きているよりも、ずっと、生きていました!! だから、私に後悔はありません!! このベルルークという国家に、バボック大総統というお方の配下になれた事を、その中で生きられた事を何よりの誇りに思います!!!」
彼に呼応するが如く広がる敬礼の波。
幾多、幾十、幾百。皆がただ、或いは涙を、或いは嗚咽を流しながら。
それでもなお、誰一人として敬礼は崩さない。ただ、覚悟が如く。
「……失礼。我々、のようです」
静かに、息を吸い込んだ。
バボックの加える葉巻が灰を落とし、白き世界に一つだけの黒点となる。
黒点はやがて雪地に溶かされ、消えて逝く。ただ一人の男の眼に映って。
「これより、私の尻ぬぐいに行く。大総統としてではなく、一人の男として頼もう」
静かに片腕を上げ、降ろす。
最早、その男はただの男だった。雪原に佇む、ただの。
「ーーー……私と共に、死んでくれ」
「「「Wis、sir!!」」」
大地を揺るがさんがばかりの咆吼。
幾つも、幾つも、幾つも。
戦乱を望み、戦乱に生きた、男の鎮魂歌。
「バボック」
反響する敬礼の中で、彼は静かに呟く。
もうこちらを振り向くことなどない、一人の男の背中へ向かって。
ただ残された、白煙を舞い上げながら。
「あの時、俺を拾ってくれた礼を言ってなかったな」
イーグは静かに両足を揃え、緩やかに頭を下げる。
生涯ただ一度、生涯ただ一人。
その男が真に心より尊敬し、真に礼を下した、一人の男。
「ありがとう」
その背が何かを語ることはない。
ただ虚空へ消え去るが如く、最果てへ揺らめく白煙が如く。
然れど、彼は、静かに、微笑み、そして。
その背へと、己の背を向けた。
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