悲嘆は赦されず
《大聖堂・教皇執務室前》
「……」
薄暗く、幾つかの蝋燭だけの光が揺らめく通路。
その最中にある長椅子に彼女の姿はあった。
美しき髪をくしゃくしゃに、自身の表情を両手で覆い尽くした、彼女の姿は。
「……ラッカル」
ゼルはただその者を前にして声を掛ける事すら出来なかった。
悲嘆、と言うべきだろうか。いいや、事実そうなのだろう。
彼女だけではない。ピクノもガグルもそうだ。無論、ダーテンも。
彼等にとってこの先の部屋に居る老婆は余りに大きな存在なのだろう。それこそ、母にも等しいーーー……。
「っ……」
自分とて人の子だ。親を失う悲しみを知らぬ訳ではない。
だが、今は戦場。彼女達が悲嘆に暮れるのを待つ訳にはいかないのだ。
それこそ今すぐ叩き出して前戦へ向かわせなければならない程に。
しかし、しかしだ。そんな事が出来るのか、自分に。
いいや、しなければならない。ベルルーク軍は今も一刻一刻と計画を進めているはずだ。今、こんな所で止まっている訳には、いかない。
「ラッカル……!」
彼の言葉は、彼の催促は誰も救わない。
そこで嘆き悲しむ女性も、立ち上がれと糾弾する自分さえも。
ただ自身の心を斬り付ける刃で彼女を斬り付けるように、刻々と。
「……フェベッツェお婆ちゃんは」
刃に涙を流し、女性は鮮血を流すが如く呟いた。
眼前の、扉一枚、壁一枚隔てた部屋に居る老婆と獣人の話を。
北国を率いる者と、化け物の話を。
「孤児を引き取ったりして……、育ててくれたわ。私もそう、ダーテンもそう、ガグルもキサラギもピクノも、他の皆だってそうだった」
戦時中だ。珍しい話ではない。
事実、サウズ王国のファナとて似たような境遇である。
その孤児を慈しみ育てるのか、それとも自身の利便な道具とするのかは別であるが。
尤も、彼女の様子を見ればフェベッツェ教皇という人物がどちらかを選んだかは言うまでもあるまい。
「だから、私達にとっての母親なの。掛け替えのない、大切な人なの……」
解った、ならば着いていてやってくれ。
そう言えたならどんなに楽だっただろう。
「……だが、ラッカル」
お前にとっても大切な人なら、着いていてやるんだ。
そう言えたならどんなに苦しくなかっただろう。
「今は戦争中だ」
きっと後悔する。だから着いていてやってくれ。
そう言えたならどんなに救われるのだろう。
「ベルルーク軍は待ってくれない」
お前の願うようにして良い。だから着いていてくれ。
そう言えたのならどんなに、どんなに。
「立て。お前の力は必要だ。……看病なら、ピクノ・キッカーとダーテン殿がするだろ。あの人の天霊の力があればフェベッツェ教皇も今暫くは大丈夫なはずだ」
「…………」
何かを言いたそうに、彼女は唇を振るわせた。
それでも押し殺すように、ただ耐えるように拳を握り締め、喉元まで迫り上がるそれを無理矢理に飲み込む。
そうでもしなければ立てないから。これを吐いたら、もう、立つことなど、出来ないだろうから。
「……ゼル、悪いけど今回の指揮は貴方が執ってくれないかしら。聖堂騎士団も私の命令を中継している事にすれば士気を落とさないはずだから」
「解った」
ゼルはラッカルの隣へと腰掛け、一度だけ首を掻いた。
また、彼の行為に呼応するが如くラッカルの眼光も悲嘆のそれから決意のそれへと変わっている。
最早そこに嘆き悲しむだけの者は居ない。
居るのはただ、大切な者を守る為に全てを賭けて戦う、二人の戦人。
「俺の思案としては、部隊を三つに分けることを考えている」
「三つ?」
「まず俺が率いる前衛部隊。これは相手との真正面切っての戦闘になるから兵力は最も多くする。第二に状況によって戦闘と防衛をこなす中衛部隊。率いるのは突貫力のある遠距離攻撃が得意なファナ、絡め手が持ち味のガグル・ゴルバクスだ」
「……って事は最後は」
「あぁ、お前が率いる防衛部隊だ。これは最終防衛線としてスノウフ国近郊に配置する」
それは非常に一般的な配置だった。
一長一短のない、確実に堅固な陣営。
現状、ベルルーク軍の手が解らない以上、その配置は適切とも言えるだろう、が。
「もし本陣に、スノウフ国に攻められた場合は?」
「ダーテン殿が居る。これ以上の牽制はない」
衰えたとは言え四天災者。
その強靱たる力を幾度となく見せつけた人物だ。
今でこそフェベッツェ教皇の元に付きっ切りだが、いざとなれば戦場に出て貰うしかない。
そして、出れば最後。相手が如何なる手段を用いても侵略は終わる。
「了解したわ。では、その様に動くわね」
「何度か確認が行くと思うが、お前の命令で通してくれれば良い。所詮、発言権のない国の団長の命令なんざ誰も聞きゃしねぇしな」
「……えぇ、そうする」
ラッカルは長椅子から立ち上がり、ほんの一瞬だけ扉に視線を向けた。
その刹那の中で彼女が何を思案したのかは解らない。然れど、その瞳にある奔流が何を示すのか、それは言葉にせずとも解ることだった。
失う怖さを恐れる、奔流が故に。
「ラッカル」
ゼルはそんな彼女を呼び止め、僅かに言葉を渡す。
彼の言葉は気休めでしかない。それでも、ラッカルという一人の女性が微笑み、お礼を言う程度には余裕が出来た。
守るぞ、と。その決心に際す、言葉は。
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