無力なる愚者と幕開け
【シャガル王国】
《貧困街・奥地》
「くそっ……!」
その男の脚は空箱を蹴り飛ばし、落書きだらけの壁へ叩き付けた。
表情も行為に違うことなく苛つきで溢れており、周囲の者達は触れぬ神に何とやらと言わんばかりに距離を取っていた。
しかし、その人混みの中から軽々として男へ近付く影が一つ。
「荒れてるなァ、オイ」
「……デッドか」
俺だよ、と言い捨てるようにデッドは椅子へ腰を投げ出した。
彼に呼応して苛つきを抑えるが如く、空箱を蹴り飛ばしたその男、シャークは一度大きく舌打ちを見せる。
「そんなに城の身代わり共が心配か?」
「……それもあるけどよ。疾うにバボック共はそんな事を見抜いてる。だが俺が何も出来ねぇ事が解ってるから放置してるだけだ」
「それだけか?」
そんな訳はない。
未だ、城には自分とモミジ、ツバメの身代わりの他に白き濃煙の面々も残されている。
それが一つ大きな要因ではある、が。
何よりは眼前で進む諸悪に何も出来ぬという、自身への苛つきが、最も大きいのだ。
何が大国の王だ。所詮、民を守ることしか出来ぬ愚か者ではないか。
先代の残した物を形取るしか能の無い、愚者ではないか。
「馬鹿が」
そんな風に口端を縛るシャークに投げかけられる、罵声。
彼は今にもナイフを抜きそうなほど殺気立った眼光で牙を剥き、デッドの胸ぐらを掴み上げる。
「……お前に、解るか。俺の気持ちが」
「解りきったこと聞くなよ。元は同じ立場で今は違う立場だぜ」
所詮、八つ当たりでしかない。
何処まで行っても愚言だ。自身のように愚かな言葉だ。
目的を達し、その先へ進めぬ自分への苛つきが、どうして自分以外の誰かに解ける?
解りきっているだろう、それは。
「お前は民を守った。国を守った。三年間耐えている。……それ以上の何を欲すんだよ」
「……バボックの野郎は約束を守ってる。民に手は出さねぇし、捕虜の扱いも上等だ。あの男は何処までも自分の欲望に忠実であり純朴だ。奴の決めた自己的な規則を決して破らない」
だからこそ。
あの男が何処までも卑屈であり卑怯であるならば、自分も手段を選ばなかった。
いや、今であれ選ぶべきではない。如何なる手を使ってもあの城を、仲間を奪い返すべきだ。
それが出来ないのは自分が馬鹿に正直だからか? それとも無力だからか?
否、双方。身代わりを使って城から脱し、こうして貧困街の奥地に隠れ住み、民達の士気を守るしか出来ぬのは、自分が馬鹿に正直で無力だからだ。
どうしようもなく、自分が何も出来ぬからだ。
「一度は俺を諭した男が笑い種だな。モミジとツバメにこそその姿は見せねぇようにしてるが、もうバレてんのも知ってるだろ?」
「……あの二人は、特にモミジは賢いしツバメは鋭い。疾うに俺のことに気付いてるのは、俺も知ってる」
「賢い故に何も言わず、鋭い故に何も言えない。それで良いじゃねぇか」
「……アイツ等に無理させて、何も思わねぇとでも?」
それもか、とデッドは口端を吊り上げる。
何も出来ぬ。この男を諭すように動こうと、自分もまた同様。
シャガル王国の面々は、恐らく今から起こるであろうそれに参加は出来ない。最早、確定事項だ。
故に無力。故に愚か。苛ついているのは、自分も同様なのだろう。
「大国を背負う者として」
牙を抜かれ、腕脚を縛られた獣。
三年という日々を垂れる雫のみで生き続けた獣。
誇りも深淵も、何もかもを奪われた獣。
「ただで終わると思うなよ、バボック……!!」
獣は、唸る。
ただ憎悪を積み重ねるようにして、唸り続けるのだ。
抜かれた故に牙はなく、縛られた故に爪はない。
それでもなお、その獣はーーー……、唸る。
【スノウフ国】
《国境線》
延々と広がり続ける雪原。
空は大地を映すが如く白く、果てしなく、暗い。
否、映すというのには語弊があるだろう。
その空に、幾億という兵士の姿は無いのだから。
「そちらの調子はどうですか、オートバーン中佐」
雪原を踏みにじり、歩み寄る一人の男。
目元にある眼鏡はいつもと違い硝子が厚く、彼自身の瞼もまた全開とはなっていなかった。
「うむ、問題はない。……それより、私の元に来る暇があるならヤムとワーズの方を見れば良かろう。いや、よもや儂と最後の一夜を過ごしたく!?」
「彼等なら問題はありませんよ。あと後者の言葉に関しては全力で否定させていただきます」
ネイクはいつもと変わらぬ平坦な表情でそう吐き捨て、雪地を埋め尽くす兵士達を眼鏡の硝子に映す。
戦力としては充分。今現在出し得る、ベルルーク軍最大の刃。
四天災者[断罪]であろうとも、今の彼なら自分とオートバーンで抑えられるし、[精霊の巫女]もまたヤムとワーズの二人と多大なる兵力を使えば止められる。
そうして純粋な兵力勝負に持ち込めば、こちらは充分に勝てるだろう。
「……さて、準備は重畳。進軍を開始しますか」
「うむ。遂ぞ決戦となると骨が唸るな!」
天より曇天を切り裂き、降り注ぐ光。
それは巨漢の牙と眼鏡の硝子を照らす。
兵士達の眼に映るその姿は正しく戦人。ベルルーク軍という巨大な刃を率いる、戦人。
「大戦に、決着を付けましょう」
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