女王の意思
【サウズ王国】
《王城・王座謁見の間》
「よく来たわね、獣人」
幾十の兵士達が居る先の王座に鎮座した、一人の女性。
その外見は余りに美しく、本人その者が絵画に描かれたかのような艶麗さだ。
彼女の持つ星々のように霊妙な黄金色の頭髪は、その一本一本が流れるように揺れている。
月のように澄み切った光を宿す瞳も、夜空よりも美しい美貌も。
彼女を彩る一つ一つの全てが人々を魅了するかのような綺麗さである。
「サウズ王国女王、メイアウス・サウズ・ベルフィゼア女王」
ジェイドはフードを脱ぎ、スズカゼを背負ったまま彼女の名前を呼ぶ。
非常に長いその名前こそ、サウズ王国の命であり頭であり全ての人物の名前なのだ。
メイアは彼の言葉を聞くと同時に、にやりと頬端を釣り上げる。
「メイアで良いわよ。そんな長ったらしい名前、いつまでもは言えないでしょ」
「……そうさせていただこう、メイア女王」
ジェイドは背負っていたスズカゼを床に下ろし、膝を突いて頭を垂れた。
少なくとも、それは暴徒達のリーダーが行う行為ではないはずだ。
ハドリーはそんな彼の姿を見て少しばかり驚いていたようだが、やがて彼と同じようにメイアへと頭を垂れて見せた。
「どういうつもりか、一応は聞いておこうかしら」
「メイア女王、我々が望むのは獣人達の処遇を向上させる事だ。決して貴女やこの国に危害を加えるような事ではない」
「その意思表示と?」
「如何にも。メイア女王、我々の日常は既に荒廃し、貧困し、殺伐としている。……これは人の日々でも、獣の日々でもない。これは、家畜の日々だ」
「……それで?」
「第二街との境界を無くせだの、国家資産を回せだの、贅沢は言わない。ただ、ただ……、母親が子供に与える乳を出せる栄養を得られる食物と、全身を傷だらけにして働く若人が家族を養える給与と、老人が孫子の頭を撫でてやれる日常と、子供達が笑い合える居場所を。ただ……、それだけの平穏を」
メイアは何も言わずに、ただジェイドの言葉に耳を傾けていた。
自らの前で頭を下げたフード姿の獣人は、暴徒らしからぬ礼儀の元に、至極当然の権利を求めている。
第一街だけでなく、第二街の住人ですらも持っている、当然の権利を。
「駄目ね」
だが、彼女がそれを許す事はない。
いいや、元より許す気などなかったのだ。
元より、ジェイド達を待つ答えは一つだけ。
「獣人共の処遇は依然と変わらず、第三街での移住と一定量の給与を強制。第二街まで足を踏み入れた者は処罰。ただし、今回だけはここまで来た事も評価して全員無罪放免。以上」
彼女はジェイド達にその言葉を叩き付けるように吐き捨てた。
今までと何も変わらない。処遇も、生活も、心も、何も。
ここまでやってきた事は、いや、これからやっていく事も、全て無駄なのだ。
「……何故だ」
ジェイドは、怒りを抑えるかのように震えた声でメイアへと疑問を投げかける。
それに対してメイアは呆れ果てたかのような、興味すら失せたかのような乾いた言葉を彼へと返した。
「今まで何百年と続いてきた制度がそう簡単に変わるとでも? 人は家畜が喋れば喰らうのを止めるかしら? 野菜が泣けば刈り取るのを止めるかしら? 魚が叫けば捕まえるのを止めるかしら?」
メイアは立ち上がり、美しい生糸が縫い込まれた絨毯を踏みつけてジェイド達へと歩み寄っていく。
その道の両端を囲んでいる兵士達が止めるのも厭わずに、彼女はジェイドとハドリー、そして縄に結ばれた少女の前で立ち止まった。
ただ冷淡に冷悪に冷徹に。
彼女の視線は下賤な獣を見下ろすように冷たく、深く、恐ろしく。
頭を垂れるジェイド達へと容赦なく降り注ぐのだ。
「人という生き物はね。いつの世も弱者であるが故に、群れを作って誰かに縋る。中心を失えば崩れ去るのは何処の国も、何処の組織も同じよ。だから、中心は決して崩れてはいけない。今までの歩み方を崩してはいけないのよ。解るかしら?」
「……その中心が貴女だと言うのでしたら、そうなのでしょう」
メイアの言葉に反論したのは、ハドリーだった。
彼女は頭を上げること無く、ただ地面に言葉を零していく。
彼女は恐ろしいのだろう。一国の主であるメイアが。
自分達の希望も運命も自由も足蹴にする彼女が。
だからこそ顔を上げられず、彼女を直視する事も出来ない。
メイアはその事を充分に理解していた。
だが、それでも嘲る事無く彼女の言葉に耳を傾ける。
一国の主として、だ。
「柱が家を支えるように、組織の長たる物はその組織を支えるための存在であり、その組織を導くべき存在です。貴女の言っている事は正しい」
「えぇ、そうでしょうね」
「……だけれど、間違っている」
ハドリーは翼の着いた手を握り締め、俯いたまま必死に声を絞り出す。
今、自分は一国の主に対して異議を唱えようとしている。
自分の一言が、第二街の元で待つ獣人達の運命を左右するかも知れない。
だけれど、それでも、言わなければならない。
この言葉を、言わなければならない。
「導くべき存在を失った長など、ただの迷い子でしかない……!」
「…………」
「確かに! 貴女からすれば私達は導く価値も無いような存在かも知れません!! だけど、それでも私達はこの国の民なのです! この国の地の上で暮らす、民なのです!! それを切り捨てると仰るならば、いつしか貴女は独りで何処かも解らぬ道を行く迷い子になる!! 違いますか!?」
「…………そうでしょうね」
「ならば、何故! 解っているならば何故!!」
「それが国の終わりだからよ」
彼女の言葉は、ハドリーの伏せられた表情を絶望の色に染めるには、余りに充分だった。
賢明な彼女はメイアの言葉が指す意味を理解したのだ。
いや、理解してしまったのだ。
「……貴女が守るのは、国なのですか」
「えぇ、そうよ」
「民でも臣下でもなく、国なのですか……!?」
顔を上げたハドリーの視界に映るのは、闇よりも深い眼光を落とす、メイアの表情だった。
彼女の瞳は言葉なしにハドリーへと恐ろしいほどの重圧を押しつける。
ジェイドのような武人ではない、ただの獣人であるハドリーがその重圧に耐えきれるはずもなく。
彼女の眼は段々と暗く、深く、淀んで、光を失ってく。
「私はね、獣人」
メイアの細長く、陶磁器のように白い指はハドリーの顎へと添えられた。
彼女は潤おしい唇をハドリーの耳元へと近付けて、ゆっくりと囁く。
「臣下は国の手足でしかなく、民は国の壁でしかなく、王は国の仮面でしかない、と思っているわ。この世に永久がないように、国の平穏も、存在も永久ではない。だからこそ、守らなければならないのよ」
「メイア女王……、貴女は……」
「私が守るのは、民でも臣下でも資源でも秩序でも平和でもない」
そもそもが間違っていたのだ。
前提的に、基本的に、根本的に。
自分達が訴えれば、叶うと思っていた。
自分達に力があることを、望みがあることを訴えれば。
叶うと、信じていた。
「国よ」
だが現実はどうだ?
女王が守っていたのは民でも臣下でもない。
[国]そのものだったのだ。
「貴様ぁああああああああああああああああ!!」
ジェイドの咆吼が王座謁見の間を貫徹し、兵士達の鼓膜を凄まじく震わせる。
彼は武器など持たないにも関わらず、黄金の隻眼を限界まで開ききり、爪と牙を剥いてメイアへと襲い掛かった。
「そこまでだ」
だが、そのジェイドも王城守護部隊隊長、バルドによって拘束される。
彼はジェイドの頭部を掴み、そのまま床へと叩き付けて押さえ込んだのだ。
そして、空いていた手でハドリーの頭部も押さえ込み、彼等を完全に拘束した。
「貴様は……! 貴様はそれでも王か……!? 民を思わずして何が王か!? 民を救わずして何が王か!?」
ジェイドの怨嗟に溺れた声は、メイアには届かない。
彼女はただ平然と、そして冷徹にジェイドとハドリーを見下ろしている。
それこそまるで、国の腐りきり、切り捨てるであろう一部を見下ろすかのように。
「貴方達の幻想論を押しつけるんじゃないわよ。私は確かに王よ。だからこそ職務を全うし、この国を守り、貴方達も死なない程度には生かしてる。ほら、国民は守ってるわよ。体裁上はね」
「我々には上辺面だけの平穏すらも与えられないのか!?」
「……良い事を教えて上げるわ、獣人」
メイアの瞳は、さらに冷たく、深く、暗く。
それこそまるで鏡のように、何かを映しても何も映さずに。
ただ、眼下で押さえ込まれる獣人を見下して、その言葉を吐き捨てる。
「私の先祖が貴方達を街に迎えた理由。それはね、壁よ」
「……壁、だと」
「敵国が攻めてきた場合、最も始めに狙われるのは? 言うまでもないわよね」
「……だから、我々を第三街に住まわせたのか。だから、我々をこの街に置くのか」
「人より遙かに生存本能の高い壁。……素晴らしいとは思わない?」
バルドの両手が、みしりと音を立てる。
その生々しい程の骨が軋む音は、手の元に押さえつけているはずの存在の抵抗による物だった。
暴れている訳でも、叫いているわけでもない。
ただ、立ち上がろうとしている。
その生来の爪と牙によって、眼前の女性の喉元を引き裂き、食い千切ろうとしている。
全ては怒りと怨嗟の為に。
「メイアウス・サウズ・ベルフィゼアぁああああ…………ッッ!!」
「言ったでしょう? メイアで良いわよ」
メイアはその怒りと怨嗟の声を物ともせずに、ただ平然とその言葉を零す。
また、バルドの意識はいつしかジェイドとハドリーを抑えることに完全に集中していた。
だからこそ、気付かなかったのだろう。
自らが守るべき主君に、銀の刃が突き付けられている事に。
「…………どういうつもりかしら?」
それにバルドが気付いた瞬間、彼の視線はメイアに突き付けられた銀色に釘付けになった。
この王座謁見の間の中で唯一、彼等に味方する者。
それは一人しか居ない。
「ゼル…………ッ!」
目を見開いた彼の視界に映ったのは、王国騎士団隊長のゼル・デビット。
ではなかった。
「……な」
何故だ。
今の今まで、その居場所すら無かったはずなのに。
誰一人として、気にも掛けていなかったのに。
「……何で、お前が」
ゼルは、バルドと彼が抑える二人の、さらに先。
メイアの背後に立った一人の人物の姿を見て唖然とした。
この国の命であり頭であり全てである女性に刃を突き付ける、人質だったはずの少女の姿を見て彼は唖然としていたのだ。
「スズカゼ…………!?」
彼女はナイフを。
リドラから預かり、ずっと懐に仕舞っていたナイフを。
自らを縛っていた縄を切り裂き、今は豪華絢爛な衣服に突き付けているナイフを。
握り直し、そして呟いた。
「全員、武器を捨てて、ジェイドさんとハドリーさんを開放してください」
誰が反応できようか。
兵士もゼルもバルドも、ただ呆然としてその言葉を理解することを拒んでいた。
だが、彼女がナイフの刃先を鳴らしてメイアに再びナイフを突き付けたとき、まずバルドが押さえつけていた二人を解放した。
それに続きゼルは両手を挙げ、兵士達も次々に武器を捨てて一歩、二歩と後退していく。
「どういうつもりか、と聞いているのよ」
そんな中でもメイアは物怖じせずにスズカゼへと語りかける。
スズカゼは彼女の問いに対し、息を呑んでこう答えた。
「……国家転覆、かな?」
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