白く濁った曇天の下で
【スノウフ国国境】
「……ふー」
スズカゼが空を舞う埃を払うように息を吐いた。
白い。真っ白で、空虚な吐息だ。
肌を刺すような寒さも嘗ては心地良さすらあった。
然れど今ではもう、この寒さは余りに悍ましく感じてしまう。
周囲に広がる幾千数多の残骸を目にすれば、必然として。
「もうスノウフ国に入るぞ」
獣車の壁際に座したゼルは、自身の白息を袖で抑えながらそう述べる。
皆は彼の言葉に頷くが、各々の防寒態勢を取っているが為に大きく示す事はない。
それをゼル自身も解っているのだろう。彼は自身の息が曇天へ消えていくのを見ると、静かに袖の中へ顔を埋め込もうと顎を引いた。
しかし、その顎は何やらごそごそと動いていたシンによって再び引き上げられる事になる。
「皆さん、どうぞ」
「……何ですか? これ」
そんな彼女の隣から伸びてきた腕の先。
そこにあったのは恐らく干し肉であろう物体。
余りに黒々として固そうな為、木の皮だと言われれば信じてしまいそうな程だ。
「こりゃ、ゴマルナル牛の干し肉か。干せば毒素が抜けて栄養素が増すって言う……、珍しいモン持ってんな」
「ケヒト先生がくれたんスよ。長旅になるやろうしこの珍味を持って行きぃ、って」
「そうか……。礼、言わなきゃな」
スズカゼ達はそれを受け取ると皆が思い思いの方法で囓ってみる。
尤も、やはり見た目通り固いらしく、ファナは一度噛んでは離し一度噛んでは離しを繰り返している始末。
シンやニルヴァーは兎も角として、女性らしからぬ喰い千切りを見せるスズカゼの食べ方は最早爽快ですらあった。
「ったく、お前はもうちょっと上品に……」
呆れつつも、彼がゴマルナル牛の干し肉を口へ運ぼうとした直後。
皆の体、否、獣車自体が大きく揺れて荷物すら散乱させるほどの急停止を見せる。
獣車の中を飛び交う荷物を蹴散らしながらゼルは獣車の外に飛び出、その後ろをスズカゼが付いていく。
続いてニルヴァー、シン、そして多くの荷物を振り払って出て来たファナが続いた。
「どうした!? レン!!」
「も、申し訳ないでス。でも、こレ……」
白く濁り果てた曇天の元、国境線をなぞる崖下にそれはあった。
見ずとも解るほどに異臭を放つ、それらは。
果てることすら出来なかった、それらは。
「……死体、ですね」
「恰好からしてベルルーク国軍だろう。しかし、これはどういう状況だ」
「酷いッスよ、これ。埋葬すら……」
「まだ身包みを剥がれてないだけ軽い方だ。恐らく進軍に付いていけなかった兵士が捨てられたのだろう」
「連中は灼熱の砂漠育ちだ。急な気温変更に精神的負荷の高い戦闘……。ま、脱落者が出るのは必然か」
ゼルは兵士の亡骸へ近寄ると、絶望に見開いた瞼へ手を添えた。
母国の土を踏むことすら叶わず、失意のままに逝ったのだろう。
その者の表情は余りに、見開いた目も皺だらけの唇も食い縛られ亀裂の走った歯も、余りに、悲痛なものだった。
故に、閉じる。もうこの世界は見なくて良いように。
「……ゼル・デビット。しかしこの死体共がここにあるという事は」
「近いだろうな」
皆の顔が引き締まる。
近くに、ベルルーク国軍が居る。あの大軍が。
既にギルドから出発して数日が経っている。充分に遭遇が有り得る時間だ。
「……よし、皆獣車に乗ろう。速くスノウフ国に入るんだ」
そう言って獣車に片足を掛けた彼の背に、制止の言葉が投げかけられる。
少女は否か応の声が帰って来るよりも前に自身の太刀を抜き、一歩前へと歩み出た。
「……何をするつもりだ?」
「少し。ニルヴァーさん、ここの風向きは西に向いていますね?」
「あぁ、確かにそうだが」
「では、大丈夫です」
彼女の一閃は空を裂き、白く濁る曇天を紅蓮に染める。
猛る業火を瞳に移す間もなく、骸は火炎の舌に舐め取られ、紅焔の牙によって神下れる。
皮膚を焼き肉を焦がし骨を溶かす。彼等の存在を、紅蓮に舞う灰燼へと帰す為に。
「ーーー……西へ」
皆の毛先を撫でるほどの微風だろうと、彼等の魂を運ぶには事足りる。
流れ逝く彼等の骨肉だった灰燼を眺め、少女は僅かに瞳を伏せた。
魂は、ここで散った。肉体は、ここで果てた。
ならばせめて骸だけは、と。そう願って。
「……行くぞ」
咎めることはない。褒めることもない。
本来ならば、敵兵の屍など唾棄して蹴り飛ばすようなものだ。
そうすべきとは言わない。しかしそう在るべきだとは思う。
優しいと言えばそれまでだ、充分に過ぎる。だが、それだけで済ませてはいけない。
スズカゼ・クレハ。この小娘は、余りに矛盾している。
「ゼル、どうかしたのか?」
「いや、何でもない。それよりお前等速く乗れ。いつ襲撃受けるか……」
彼の言葉はまたしても遮られ、皆を戦闘態勢へと移行させる。
彼方より轟音を掻き鳴らしながら奔ってくる獣車が視界に入ったからだ。
しかも、見ればその獣車を操っている者はベルルーク国軍の衣服を着ている。誰が来たか、何をすべきかなど論ずるまでもない。
「俺が相手をする。スズカゼ、お前は皆と獣車に入れ。ニルヴァーはレンの護衛を……」
「いや、待ってください。ゼルさん」
スズカゼは魔炎の太刀を仕舞うと、何げない足取りでその獣車へと向かって歩いて行った。
ゼルが制止しようとする声やシンが呼び止める声など無視して、未だ豪速で向かって来る、その獣車へ。
「お久し振りです」
ぽつりと、曇天の空に吸い込まれそうなほどか細く彼女は呟いた。
獣車は今までの加速が嘘だったかのように緩やかとなり、やがて彼女の眼前で完全に停車した。
そして、その操縦者は自らの顔を隠す布地を取り払い、真っ白な牙を見せる。
「よぉ、久し振りだな。馬鹿娘」
「うるさいですよ、シスコン半獣人め」
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