蒼快吹き抜けて
《王城・王座謁見の間》
「……ふむ、どうかな?」
「Wis! 目標は現在牢獄にあったと思われる隠し通路から国外へ逃亡しています!」
「状態は?」
「瀕死です」
「結構」
嬉々として、バボックは軽く煙草を吸い込んだ。
心地よい白煙が肺胞に染み渡り、鼻腔から抜けていく。
所詮、一つの狂いだ。歯車の間に小砂が挟まった程度でしかない。
歯車の躍動により弾かれるか潰されるか、どちらにせよ大した物ではないだろう。
だが、それが歯車を滑らせる事がある。幾億分の一にも満たぬ確立だが、必ず存在する。
故に潰す。例え小砂の一粒であろうとも。
「……悪いが我々の為に死んで貰おうか、名も無き侵入者君」
《シャガル平原》
「く、そっ……!」
大地を駆けていた。何処までも続く緑の平原で。
悪態を吐きながらも、大好きな大地を駆けていた。
頬を撫でる風が心地よい。大地を蹴る脚の躍動が愛らしい。
然れど、風を切る腕はもう、一本しかない。
「まだだっ……! まだ足りないっ……!!」
彼、韋駄天に名前はない。親もいない。
彼はどうしようもなく奔るのが好きな男だった。
幼少の頃、ボロっちい小屋しか無かったような場所で毎日奔っていたのを覚えている。
どうしようもなく好きだったのだ。自分の周りの景色を追い越して、何処までも奔っていけることが。
誰の声も聞こえなかった。風の音しか聞こえなかった。
自分だけの世界だったのだ。奔っている間だけは、誰にも邪魔されない自分だけの世界があった。
「まだ、もっと遠くッ……! もっと疾くッ……!!」
何処までも、何処までも、何処までも。
奔っていける。自分の脚さえあれば、何処までも。
韋駄天という名は自身に架した鎖だった。この名に恥じぬよう奔ろうという、鎖。
然れど。その鎖さえ今は誇りとなった。この名に恥じないという自信があるから。
だから、もっと、奔ろう。誰の手も届かない場所へ、もっと、もっと疾く。
「行かせないよ」
韋駄天の臓腑を貫いたのは、脚撃。
まるで柔布へ棒を突き刺して破るかのように、容易く裂いたのだ。
韋駄天の瞳に映ったのは、自身の眼前へ飛び散る臓腑と骨肉。
そして、死という存在。
「が、ぁ」
韋駄天を貫いた脚撃の主、そのドレッドヘアーを揺らす女性。
彼女の瞳に慈悲はなく、彼女の唇に悲痛はない。
ただ命令された。侵入者を排除せよと、そう命じられただけのこと。
故に殺す。躊躇や遠慮無く、殺す。
「隊長!」
「こちら、ヨーラ・クッドンラー。侵入者を排除したわ」
彼女は自身の足下で、新緑の草原に沈む男を見下ろしていた。
臓腑に穴が開き血は新緑の根を紅く染めている。
どう見ても、即死だろう。
「……他に協力者らしき者の姿は?」
「いえ、見当たりません! この辺りを通過したのは我々の補給部隊だけです」
「結構さね。貴方達は先に帰還しなさい。私はこの死体を……」
新緑の草々は風に揺れる。
潮風はヨーラの頬を撫で、彼女のドレッドヘアーを揺らしていた。
心地よいとすら思う。たった今、人を殺したというのに。
いや、殺すというのに。
「……俺の」
大地に流れる真紅は、風のように流動していた。
男は大地を駆けていた。緑を裂き、風を靡かせて、必死に藻掻きながら。
「脚は、何処だ」
彼は最早、自分が何をしているかさえ理解出来ていない。
子供が無くした玩具を涙ぐみながら探すようにさえ、見える。
彼は這いずり回りながら、紅色の風を背負いながら、探し続けるのだ。
大好きな世界を感じる為に、決して無くしてはいけないものを。
ずっと自分と一緒にあった、それを。
「風は、何処だ」
自身の頬を撫でるのは泥臭い草羽ばかり。
いつも自分を包んでくれた世界はない。
「俺は、何処だ」
景色はいつまで経っても変わらない。
嘗て見る暇も無く消えていった世界は、今、鎖のように己を縛り付ける。
泥沼のように、己を絡め取るのだ。
「…………」
彼のそんな様子に、ヨーラは奥歯を噛み締めた。
この男が何物なのか、どんな人生を歩んできたのかは知らない。
愛する人が居たのかも知れない。譲れない想いがあったのかも知れない。決して曲げられない信念があったのかも知れない。
けれど、これは戦争だ。そんな物は容易く消え去って潰される、世界だ。
「……運が無かったと、諦めるんだね」
最早、見るに堪えない。
苦しむ間もなく殺してやる事が、この知るはずもない男へのせめてもの情けだ。
彼女は微かに眉根を顰めると片足を高々と上げ、天の太陽を突き刺した。
神を信仰している訳ではないから、贈ってやれる言葉はないけれど。
せめて、苦しまずに死ねるようーーー……。
「……あぁ」
彼は、韋駄天は。
藻掻くことを止め、奔ることを止め、背負うことを止め。
仰向けになり、蒼く輝く空を見上げた。
純白の雲々が蒼色の海を泳ぐ。何処までも、何処までも。
それは、どうしようもなく素晴らしくて、そして。
「良い、風だーーー……」
やがて、その草原には誰一人として姿を残す事は無かった。
新緑の草原は風に揺れ、蒼快の空は何処までも続く。
残された物は何もなく、残った者は誰も居らず。
ただ、墓もなく微笑む屍が、空を見上げるばかりーーー……。
読んでいただきありがとうございました




