甘露は猛毒となりて
《D地区・軍本部・廊下》
「…………よし」
水雫滴る髪を両手で掻き上げ、少女は自身の表情を締め上げる。
ここから先に居るのは悪魔のような男、いいや、悪魔だ。
自身の心を弄ぶことを生き甲斐にするような、男だ。
だからこそ、自分も生半可な意思で進むワケにはいかない。
あの男を前にして、高がその程度で。
「行きますか」
自身の周りには誰も居ない。
ゼルもファナもヨーラもエイラも。誰一人として居ない。
強いて言えば、先程ここまで案内してくれたネイクが頑張ってくださいと声を掛けてくれたぐらいだがーーー……、思えば彼もベルルークの人間である。
部下にまでそう言わせるとは何たる人物であろうか。
「クソ野郎の元に!!」
「誰がクソ野郎かな」
「え」
「いや、中々入ってこないから」
扉から顔を覗かせる初老の男。
彼女はその男を前に硬直し、暫し静寂の時間が流れる。
やがて取り敢えず入ったらという男の言葉に促され、スズカゼは肩を落としながらその部屋へと入っていった。
《D地区・軍本部・大総統執務室》
「さて、ようこそと言うべきかな?」
「いやさっきの発言は違うんですよ誤解なんです心の中でクソ野郎とは言いましたけどまさか口に出るとは思わなかったワケでいやマジで違うんですよホント表面上はそんな事思ってないんで」
「本心では思ってるんだね。いや、まぁ、今更だから別に良いけれど」
バボックは葉巻の先を毟り取り、口端に加える。
それからマッチを擦って先端へ火を灯し、軽く吸い込んだ。
葉巻は先から灰色に染まり、灰燼となりて灰皿の上に落ちる。
「あぁ、煙草良いかな? もう吸っちゃったけど」
「別に大丈夫ですけども。……禁煙してたんじゃ?」
「ちょっとあってね。久々だからとても美味しい」
「はぁ……、際で」
バボックは話し合いを始めるでもなく、そこから数分間、延々と煙草を吸い続けた。
彼の眼前に座すスズカゼからすれば、その数分はとても長く感じられただろう。
自身の愚痴が聞かれたこともあるが、それ以上にこの男がここまでのんびりと対応してきた事に驚いているのだ。
入室一番とんでもない事を言われることすら予想していたのだ。それが、この対応ではーーー……。
「さて」
然れど、彼女の動揺すらその男は容易く奪い去って行く。
先程まで楽しそうに煙草を嗜んでいた男の姿はそこには無い。
あるのは、煙草を片手に持ったベルルーク国大総統、バボック・ジェイテ・ベルルークの姿だった。
「話を始めよう」
「……はい」
スズカゼもまた、自身の意識を心の底で整え直した。
白煙舞うこの一室の中で、この男に呑まれるワケにはいかない。
呑まれれば、それまでだから。
「別にね、私は謝罪だとか礼儀正しい言葉を聞きたいから君を呼んだワケじゃない。君だってそんな物は他国で言い飽きただろう?」
「……だとすれば、何のご用で?」
「君は知る価値があると思ってね。この世界の真実を一つ教えようと思う」
バボックが机上へ広げたのは数枚の資料。
この世では希少とされる写影魔法が幾多にも用いられた、四大国会議の時よりも明細な資料。
彼は視線でそれを取るよう促し、スズカゼもまたそれに従って資料に手を伸ばす。
「……これは」
彼女の瞳に映ったのは記憶に新しい文字だった。
ロドリス地方ーーー……。四国大戦中の大災害により人間の住めなくなったとされる場所。
資料にはそこに関する情報が事細かに記されており、目眩がするほどの文字量を持って全てを物語っていた。
「……」
しかし、知っている。ここに到るまでにあの地方のことは耳にしているのだ。
彼がこれをこの場で出してきた意図は知り得ないが、それでも既に理解している事に対し、大凡はーーー……。
「……え」
記されていた。
そこに居たのは漆黒の衣と白銀の刃纏う男と、上着を斬撃と火傷痕に濡らして紅蓮を拳で潰す男の姿が。
高が写真からでも解る程、威圧や殺気に満ち足りた、その者達の姿が。
「[斬滅]と[灼炎]の姿だよ」
「……四天災者、ですよね」
「そうさ。君は不思議に思わなかったかい? 大凡、歴史を聞いて疑問に思ったはずだ」
「何が……」
「歴史や人々に大きく爪痕を残したはずの戦争。それを止めたのはたった四人の人間と獣人だった。今でさえ、彼等という脅威があるからこそ各国の戦争は停止し、先日の四大国条約を持って完全に終結した。だね?」
「……えぇ、はい」
「何故だと思う?」
口端を吊り上げ、白煙を天井に焚き付けて。
初老の男は、悪魔の男は嗤う。
「それ程の戦力があるのに、どうして戦争を終わらせたと思う?」
「そ、それはあの人達が平和を」
「平和! 平和ねぇ」
バボックの武骨な指が、資料の写真を指す。
歪んだ口元をさらに歪ませて。白色の牙で口端を吊り上げて。
「彼等は終わらせたんじゃない。決着が着かなかっただけなんだよ」
「……決着って」
「端的に言おう。嗚呼、とても解りやすく言って上げよう」
彼の表情はいつの間にか戻り、とても優しい笑みを浮かべていた。
しかし、スズカゼからすれば、それは甘露に見える。とても甘い、露に見える。
悪魔が己の手元に獲物をおびき寄せるために垂らす、甘露に。
「ロドリス地方はね、四天災者の闘争によって壊されたんだ。嗚呼、いや、違う。世界の大半は彼等の闘争によって壊された、と言うべきかな?」
甘露は、墜ちる。
「思ったはずだ、奇妙に。正反対の大国に向かうまで獣車で数週間? 高がその程度でこの星を渡りきれるはずなど無いだろう」
雫は、垂れる。
「大災害とは良く言った物だよ。確かに四つの天災だね」
その色を漆紫にして。
「彼等は害悪さ」
猛毒となりて。
「この世界にとってどうしようもなくーーー……、ね」
波紋を、産む。
読んでいただきありがとうございました




