獣の渇き
【ギルド地区】
《東部・大通り》
「渇くんだよ」
幾多の店々が並ぶ大通りにて、彼等は再び対峙する。
全身の骨を衝撃に浸食されたジェイドと、狂喜に牙を歪ませるデモン。
双方の戦いは東館の倉庫から移動し、終ぞギルド地区へと到っていた。
また、二人がここに来るまでに通った軌跡は余りに明白。
そう、大地に刻まれた破壊という軌跡は余りに明白なのだ。
「心の渇きってのかなァ。飯食っても女抱いても金得ても……、満たされねぇ。こう、心の中に何かがあるだよ」
「それは狂気だ、デモン。喰らえば沈む」
「喰らったから沈んだのさ、俺は! それで良い、そうあるべきだ。人も、獣も! 俺達は狂気に呑まれるべきなんだよ。……いいや、俺達は本能に呑まれるべきなんだ」
「本能? それは、性を捨てている。ただの獲物に成り果てる行為だ」
「生きる為には人としての性が居る。だが、戦いには不要だ。人を捨てろ、俺達は獣だろう? ジェぇええええイぃドぉおおおおおお」
疾駆。
大地に残るのは粉塵。
立ち並ぶ住宅の棟々に反響し、迫り来る脅威の咆吼は黒豹の耳を劈く。
同時に破壊の衝撃が皮膚を激震させ、腹底を掻き乱す。
全身から溢れ出るその警告音に、ジェイドは畏怖していた。
長らく覚えることのなかった、感情。恐怖という感情。
だが、それは同時に彼の思考を復活させる。
いつからだ、恐怖しなくなったのは。平穏に身をやつし、潤ったのは。
あの頃ーーー……、血肉を啜り、銭を喰らったあの頃。
あの頃の、自分は、今、何処に行った?
「ここに、居る」
自分は何処にも行ってなどいない。
ただ、見当違いの方向を見て、勝手に首を捻っただけだ。
見当違いの方向を見て、一度は知った絶望を、スズカゼの成長と共に再び忘れさっただけ。
思い出せ、自分の刃は何の為にある?
彼女という太陽に出来る陰りを、背負うためだろう。
「……良い、潤うぜ」
デモンの視界を覆い尽くしたのは黒だった。
流れるように消え去った黄金の隻眼。遠ざかる黒豹の姿。
彼が、自身の眉間を脚撃によって撃ち抜かれたのだと気付くのには。
その男が例え刀を失い、隻眼であろうとも、脅威であることに気付くのには。
ジェイド・ネイガーという獣人が嘗て[闇月]と呼ばれた存在であるのに気付くのには。
一瞬とて、刹那とて、不要だった。
「……ッ」
デモンの突貫力、それを迎えた自身の筋力。
どちらが勝るかなど、言うまでもない。
現にジェイドの足は悲鳴を上げ、最早立つことすらままならないでいた。
平穏に身をやつした代償とでも言うのか、間違いなくこの身体は鈍っている。
だからこそ、必要なのだ。何か、武器がーーー……。
「……む」
彼の黄金の隻眼に映ったのは、見覚えのある店だった。
店主の姿こそなく店先には布が垂れ下がっているが、何が置いてるかは充分に解る。
この状況に間違いなく必要な、それが。
「……あー、最高だわ」
一方、蹴り飛ばされたデモンは天を仰いでいた。
何処までも続く潤しい青色が、まるで自身の心に滴る雫のように思える。
この戦闘が、狂乱が。何処までも自分の渇きを癒やしてくれるのだ。
眉間に走る激痛でさえも、今、自身を潤す雫でしかない。
「戻って来た戻って来た……。あの頃だ、あの頃の素晴らしい世界だ。闘争と狂気に溺れた、世界だ!」
膝を胸元まで引き、一気に伸ばす反動で彼は立ち上がる。
駄々を捏ねていた子供が玩具を与えられて飛び上がるような、喜び。
いや、それよりも純粋な嬉々が今、デモンの中にはあった。
嘗て闇夜に出会えば死すら覚悟しろと言われた存在ーーー……。
[闇夜の月光は紅色の大地に降り注ぐ。故に、闇月]と謳われた、あの存在が。
今、目の前に、居るのだから。
「最高だろォ? なァ……」
刀。
一目で解る、それは。
他に何と形容出来るはずもない、刀。
「名刀、だな」
「店先から拝借した。事情を説明すれば解ってくれるだろう」
「弁償とか大丈夫かよ」
「案ずるな。命は安い」
デモンは彼の言葉に同意するが如く嗤い、一歩を踏み出す。
その刹那だったか、それよりも寸前だったか。
彼の腕より、感触が消え失せたのは。
「……あ?」
縮地と呼ばれる技がある。
瞬時に相手との間合いを詰める、または相手の死角に入り込むという技。
要するに相手の視界、及び意識から自身の存在を消すという技法だ。
これは超高速の移動と超高度の技術があって初めて成し得る技である、が。
ジェイドの一撃はそれを遙かに凌駕していた。
「まず右腕だ」
デモンからすれば、それは走馬燈にすら思えただろう。
血すら吹き出さず、余りに鮮明な切り口を持つ腕が自身から離れていく。
今くっつければそのまま癒着するであろう程に美しい断面。
自身の反応速度でなければ、未だ腕は自身の物であると錯覚するだろう。
尤も、その自分でさえ痛覚が到っていないのだが。
「次は足だな」
ジェイドの言葉が、蟲毒のように脳髄へと染み渡る。
意識や警戒音さえ溶かし付くさんばかりの、声。
それは余りにーーー……、恐怖と言うには甘すぎた。
「かァッッ!」
肺胞から空気を絞り出すかのような悲鳴。
デモンは自身から離れていく腕を掴むと同時に後退した。
後退、と言うよりは逃亡だろう。それほど無様に彼は跳躍せざるを得なかったのだ。
「……ッ」
もしあの場に居れば、本当に足は無くなっていただろう。
いや、足もだ。あの刃の軌道からして、間違いなく腹が袈裟斬りにされていた。
闇夜の月に、沈んでいただろう。
「化けモンを呼び覚ましちまったかァ……?」
試しに腕をくっつけてみると、本当に癒着した。
余りに美しい断面故に、細胞が死に絶えていなかったのだろう。
それでも神経すら癒着させる程とは、どんなに疾く綺麗に斬ったと言うのか。
「……嗚呼、嬉しいねェ」
デモンは嗤っていた。相変わらず、嗤っていた。
この男との戦いが、殺し合いが、闘争が。
何処までも自身を、潤すから。
「続けようぜ、闇月。……もっと俺を、潤してくれ」
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