動く紅蓮と砕く拳撃
《貧困街・奥地》
「……ん?」
スズカゼは背後を振り返った。
そこに見えるのは怯える貧困街の者達と、薄汚れた壁の先にある出口のみ。
何かがあるわけでも無い。貧困街の、つまりデッドの部下達からすれば羽虫でも居たのかと思う程度だろう。
「何だ? どうした」
「……臭いですね」
彼女の言葉に眉根を顰めたのはデッドだけではない。
他の、彼の部下達も不機嫌そうに眉端を吊り上げ、中には舌打ちする者まで居るほどだ。
「悪いな、ここの連中は前王の悪政で金を取り上げられた連中ばかりだ。お前みたく毎日風呂に入ってるような奴等じゃないんだよ。河川や海で身体を洗う奴等だからな」
「いや、そっちじゃなくて。むしろ私の知り合いより清潔ですよ、皆さん。……私が言ってるのは焦げ臭い、臭いです」
「焦げ臭い? 何処かで火遊びしてる馬鹿が居るのか?」
「いえ、これは金属の摩擦……。何かが擦り切れたような……」
デッドはスズカゼの言葉より、彼女の瞳が何処を捕らえているかを注視した。
[獣人の姫]について、噂は聞いている。
獣人を救ったという点については気に入っているが、何より四天災者相手に啖呵を切って見せたという噂もあるのだ。
それに、各国で問題を起こしたり敵対した相手を半殺しにしたりと、色々良くない噂も聞いている。
この小娘は信頼に値する人物だろう。確かにそれは間違いないとは思う、が。
自分が信頼しきるかと言われれば話は変わってくる。
「……どうするつもりだ?」
「様子を見に行きますよ。あと、あの辺りに人を近付けさせないでください」
「ほう、様子。だが生憎と俺は貧困街のボスであってカミサマじゃねぇ。誰からだれまで動かさないなんて知略、前王でもあるまっ……」
彼は言葉につまり、微かに口を拭う素振りを見せる。
大方、気管に酒が詰まったのだろうと部下は慌てる素振りを見せたが、スズカゼは至って冷静だった。
気管に酒が詰まったのではない。言葉を無理やり止めたのだ。
「……どうせ解ることだ。後で教えるさ」
誰にも聞こえないように、息を吐き捨てるような声量で。
スズカゼは無言のまま頷いて、今一度ジュースを仰いだ。
甘い泡沫が口の中に広がっていくと共に、彼女は小さく息をついて立ち上がる。
「では、行ってきます」
「あぁ、気を付ける事だな」
《貧困街・路地裏》
「ぬぅんッ!!」
豪腕が瓦礫を破砕し、粉塵を巻き上げる。
一撃必殺の拳を回避したデイジーは、ハルバードを後部へ振り抜き、瓦礫を破砕。
目眩ましの瓦礫を散らすと共にスモークの脳天へと拳を叩き込んだ。
「柔いッッッ!!」
その拳を掴んだまま、スモークの豪腕は狭い路地裏の中で半円を描く。
頭上から地面への落撃。頭蓋や脚骨だけでなく脊髄すらも圧砕する剛力。
「ぐ……っ!」
デイジーは壁に突き刺さったハルバードを何とか握り締め、剛力へ抗った。
大凡その威力を削ぐことしか出来ないが、全身の骨々を守るには充分な抗いであった。
無論、その一撃で止まればの話だが。
「甘いわァアッッ!!」
爪先を回し、豪腕はハルバードの刺さった壁ごとデイジーを振り回す。
空から見れば建築物一棟が貧困街で回転しているような物だ。
デイジーの視界は回転し、錯乱し、激震する。
全身の細胞が悲鳴を上げ、筋肉が軋み、臓腑が中身を吐き出していく。
余りに圧倒的なまでの、実力差。
「むぅんッッッ!!」
建築物が倒壊すると共に、豪腕は粉塵を切り裂いた。
その先に居る少女の全身を掻き乱す衝撃と共に、瓦礫全てへ叩き付けて。
確実に殺す為に、一撃を放ったのだ。
「……貴様が何を考えておるかなど、儂は知らん。知ろうとも思わん。だが、儂は曲がりにも何もこの国に傭われた傭兵じゃ。王の命令には従うし王女の願いも聞く。それが武勇を求むものであるならば、尚更のう」
瓦礫に沈む肉塊の足から手を離し、懐に指を伸ばす。
スモークの頬と衣服には赤黒い血が、周囲には生臭い異臭が。
幾度となく鼻腔を通り過ぎる、自身の生涯と共にあった臭いを。
彼は白煙により、消し去る。
「小娘、何がお前をそうまでさせた? 何がお前を狂気に変えた? あの子を殺そうとしたお前は、いったい、何を……」
粉塵が舞い、白煙に溶ける。
瓦礫の元に降り注ぐ夕日は、橙色。
老人の巨体へ降り注ぐ刃は、銀色。
白き煙と濁り色の瓦礫を濡らすは、紅色。
「……が」
砕いたはずだった。
全身を、挽肉にしたはずだった。
あの攻撃に耐えられるはずなど、ない。
幾ら鎧を纏っているとは言え、この小娘が纏っているのは軽甲だ。
自身の拳撃を持ってすれば粉砕するなど訳の無いはず。
だと言うのに、何故だ。
何故、この小娘は傷一つ負っていない?
「貴様……、何を……」
「貴方が知る必要はない、白き濃煙の隊長。そこで枯れて逝け」
ハルバードの刃は今一度、スモークの背を切り裂いた。
強固な皮膚を引き裂き、銀は紅色の筋肉繊維すらも斬断する。
舞い散る鮮血の中、老父の意識は緩やかに闇に落ちていく。
緩やかに、緩やかにーーー……、深い闇の中へと。
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