曇り空は雪風を溜める
《スノウフ海域・海峡線》
「吐く。死ぬ」
「ユーラ、もう一度酔い止めの回復魔法だ」
「何回目だよチクショウ!!」
大柄の男に背負われた少女はユーラと呼ばれた青年より回復魔法を受け、その吐き気を沈下させる。
因みに彼は何回目だと叫んでいるが、実に十九回目だ。
船に乗っているのならばこんな言葉も吐かなかっただろう。ただ面倒臭そうに回復魔法を掛けるだけだったのだろう。
だが、ここは海面だ。そして彼等の移動手段は疾駆だ。
当然、意識を足に集中しているのだから疲労は普段の数倍である。
「と言うか凄いですね。海面走れるとか」
「実際はラウディアンの岩の魔術で足場作ってんだけどな。流石に海面で保持するのはキツいから踏んだ側から崩れていくぜ」
「へぇ、道理で揺れると……」
「まぁ、若は普通に走ってんだけどな」
「この人も大概ですね」
スノウフ国より脱出して既に数十分。
彼等はスノウフ海域の海峡線、即ち国土限界に居た。
いや、居ると言うべきか。その移動速度たるや残り数分で国境を越える程なのだから。
「つーか、この面子なら普通にスノウフ国へ攻め込んでも良かったんじゃ? 相当な実力でしょうに」
「馬鹿言え。四天災者に大国の騎士共、その上[獣人の姫]まで居るんだぜ? どんな馬鹿でもそんな無謀な行為しやしねぇよ」
「ですよねぇ。私もあんな状況じゃなきゃ反抗する……、あれ? この状況なら逃げれるんじゃね?」
「そのまま海に真っ逆さまだけどな!」
「……止めときます」
少女は仕方なく項垂れ、流れゆく海面を瞳に映す。
何処までも続くその水面は、何故だか見覚えがあった。
真っ黒で真っ青で、何処までも沈みゆく深淵の水面。
曇天の元に光すら弾かぬそれは、余りに深かった。
彼女は自身の紅蓮すら塗り潰しかねないそれを見て、静かに息を吐く。
何処かで、これを見たことは無かっただろうか? そうだ、あるはずだ。
記憶の端に引っ掛かる、泥沼に沈んだ枯葉のような、一縷。
この深淵へと続く水面には、何故だか、何処かでーーー……。
「……うぇっ」
「ユーラ」
「何回目だっつってんだろチクショォオオオオオオ!!」
二十回目である。
【ロドリス地方】
《鬼面族の村・海岸》
「到着したぞ。ここが鬼面族の村だ」
若なる男の前に広がるのは、森だった。
文字通り鬱蒼とした木々が広がるだけの森だ。村らしき物は一つもない。
当然だろう、そこはあくまで村の領域であれども住居地には遠く及ばない場所なのだから。
とは言え、人の手が過異に加えられていない森という自然には物言えぬ美しさがある。
その光景を幼き頃より見続けた男達ならともかく、スズカゼは綺麗だと絶賛の言葉を浴びせ掛けるはずだ。
ラウディアンの肩上でユーラと共に伸びていなければ、だが。
「…………」
「何? ユーラが海上で回復魔法を使用しすぎて伸びた? ……まぁ、小五月蠅い娘も伸びたから構いはしない。噂では[獣人の姫]は女好きとも聞く。流石に姫へ合わせる訳にはいかなかったからな」
「……」
「解っている、姫を巻き込みはしない。だがこうなった以上は彼女も無関係とは征かんのだ」
「…………」
「……さぁ、どうだろうな。この状況を族長がどう評すかは知らん。あの方ならば天の果てにて笑っておられるだろう」
「……」
ラウディアンは悲しそうに顔を伏せ、静かにユーラとスズカゼを背負い直す。
両脚を濡らした彼等は寒く凍える風を踏みつけ、静かに歩み出していた。
新緑、否、深緑を保つ草木を避けながら、整えられた土を踏む。
ラウディアンの背に乗るはただ気を失った二人の者共。然れど、若なる男の背にはそれ以上の者が乗し掛かって居た。
一族の命運という、余りに重い物が。
「我々は未だ諦める訳にはいかんのだ。如何なる手を使おうとも、呑まれる訳にはいかぬ。……偽りの罪になど、屈する物か」
【スノウフ国】
《城下町・船着き場》
「……やはり船は抑えられているようだな」
一方、こちらは逃げ遅れたクォルとソガネ。
彼等はキサラギから逃げたは良い物の、海面を渡る手段を失っていた。
いや、二人の魔術と脚力を持ってすれば渡ること事態は不可能ではない。こうして既に占拠されている事が解りきった船着き場に来る必要性などありはしないのだ。
にも関わらずこうして船着き場に来た理由。それは彼等の行く末を表すかのような灰色一色の空が物語っている。
「……吹雪が、来るな」
曇天の示す道は、荒れ狂う雪風。
如何に焔の魔術を扱い飛翔するクォルでも、如何に水面を蹴り飛ばし疾駆するソガネでも、北国特有の吹雪の中でそれを意地するのは不可能だ。
よってこの国からの残された脱出手段は来国の際に用いた船となるわけだがーーー……、無論のこと、これは既に見張られている。
見張りは一般騎士だ。倒す事は難しくないが、のんびりと船をこいで脱出するまでに四天災者か先の獣人が来る事は想像に難くない。
端的に言って脱出不可能。自分達は孤立してしまった訳だ。
「……どうする、ソガネ。このままでは針山に放り込まれた鼠だぞ。いや、今は獣の巣に放り込まれた仮面か」
「阿呆な事を言わず現状打破の方法を考えてください。我々が人質に取られよう物なら計画はご破算ですよ」
「そうは言うが、この状況を打破する方法などあるまい。協力者が居れば話は別だがーーー……」
建築物の影に隠れる彼等の耳に聞こえてくる、声。
騎士達の喧騒でも吹雪を落とそうと吹き荒ぶ寒風の声でもない。
ただ情けなく、誰か私達を傭ってくれと言う、女三人の声。
「運が良いようだな、ソガネ」
「……だと良いんですがね」
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