廃墟街の噂
《第三街東部・ゼル男爵邸宅》
「んー……」
小脇に紅白斑の卵を抱えながら、少女は目を覚ます。
体に痛みは無いし、違和感もない。気持ち良い目覚めと言えるだろう。
自身の脇腹で微かに動く卵も、随分と愛らしい。そろそろ生まれてくるのではないだろうか?
「……っと」
サウズ王国に帰還してから数週間が経過した。
今までは訓練や第三街復興の手伝いで暇潰しをしてきたが、流石にもう体が疼いて仕方ない。
数週間も経ったのだから、そろそろゼルに打診してみようか。
ダメ元と言う事もあるし、まぁ、やってみなければ解らない。
いや、もう一週間も経って自分は万全の状態なのだから、もしかしたら。
……それに、黙っていては呑み込まれてしまいそうで恐ろしいのだ。
司書長が言い残した、あの言葉に。
だからこそ、今は動いていたい。何かをしていたい。
そうでなければ自分は、本当に呑まれてしまう。
「…………」
第二次世界大戦。この世界には決して無かった言葉。
自身の世界でも確か六、七十年前に終戦した戦争。
数百年は生きたという彼女が口にするには些か奇妙な言葉ではあるが、こちらと向こうの世界の時間が同じ流れとは限らない。
今まで目を逸らしてきた現実が一挙に押し寄せてきたようにも思う。
いや、目を逸らしていたが故に別の考えも今はある。
元の世界に帰るかどうか、という事だ。
正直、この世界を離れたくはない。現実の世界も名残惜しいが、こちらの世界も……、いや、現実世界より名残惜しいだろう。
確かに大変な事は色々あった、死にかけた事もあった。
だが、それ以上にこの世界で自分は大切な物を見つけたのだ。失いたくない物を見つけたのだ。
現実の世界に帰って変わらぬ日々を寂しく過ごすよりも、この世界に居た方がーーー……。
「……はぁ」
いや、止そう。
ここで考えても、元の世界に戻る術などありはしないのだから話にならない。
いざ元の世界に戻る術を得たときに考えれば良いのだ。行き当たりばったりと言われればその通りだが、自分はいつもそうしてきた。
願わくばその時、胸を張れる事を祈るばかりだろう。
《ゼル男爵邸宅・執務室》
「駄目だ、行くことは許さん」
「ですよねー……」
苦々しい顔で椅子へ踏ん反り返るゼルに、スズカゼは同じような苦い笑みを返した。
他大国への挨拶回りは重要だ。だが、それ以上に傷を癒やすことも重要である。
スズカゼはともかくとして、他の面々は動く事すらままならないほどの負傷だ。
ゼルも義手をだらんと垂らしており、とても動かせる状況ではない。
最近、リドラやジェイド、ハドリーもここに来ていない事を考えれば恐らく自宅で療養しているのだろう。
今は内面外面共に、今は癒やすべきなのである。
即ちスズカゼの浅はかな考えは完全に禁止されているという訳だ。
「数週間っつても、今回は総員負傷が酷い。物資回復も含めてまだまだ時間が掛かるだろうよ」
「えぇー……」
「最悪、デューのツテで外部に委託することも考えるが……、まぁ、そこは後で良い。今は休め。これ命令な」
「暇なんですけど……。と言うか体力だって万全だし」
「暇なんだったら、また第三街の復興作業でも……。いや、待て。アレがあった、アレが」
ゼルは机上で山積みになっている資料の束を漁り始める。
片腕が使えない物だから資料の束が何度か落ちたのだが、構う様子すら見せない。
結局、スズカゼも手伝って数分後に出て来た資料が彼女の当面の目標となった。
「第三街西部の廃墟街、覚えてるか?」
「……あー、薄らと」
「ファナがまだお前の護衛に任命されたての頃だな。獣人の少女が黒尽くめの連中に誘拐されたあの事件で、黒尽くめの連中が潜伏してた場所だ」
「あぁ、あの場所ですか。まだ私が第三街領主になったばかりの頃ですね」
「そうだ。……で、第三街復興に際してあの廃墟街解体が決定してな。いや、前々から決定してたんだが色んな騒ぎのせいで踏み切れなかったらしい」
「大変ですねぇ」
「七割方お前のせいでな。……とは言え、その廃墟街が未だ解体できずに居るんだよ」
「人手が足りないんですか?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
ゼルは何処か神妙な顔付きで手を組み、口元を隠す。
その表情には何処か不安と警戒が込められているようにも思う。
何事かと身を乗り出したスズカゼに、彼はそっとその事実を囁いた。
「……出るんだよ」
点、点、点。
余りに突拍子の無い事だったので、スズカゼは思わず黙ってしまった。
出る? 何が? ゴキブリ? あぁ、この世界ではまだ見てないか。
だとすれば、と言うかこの声口調と雰囲気で言われたらアレしかないだろう。
にわかには信じがたいが、アレしかない。
「幽霊?」
「その通り」
「……えぇ-。この歳にもなってですか? 男のキャー怖いなんて萌えもしませんよ」
「馬鹿野郎、俺じゃなくて騎士団連中が嫌がってんだ。戦場には出ても殺しはやってない連中も居るからな。廃墟街に怨念がどうたらこうたら言いやがって働こうとしねぇんだ。ヨーラに尻叩いて貰う訳にもいかねぇし」
「ですよねぇ。……うーん、所詮は空気漏れとか雨水とかそんな理由でしょうし、ヨーラさん達と行ってきますよ」
「あぁ、頼む。ヨーラ達も復興作業ばかりで退屈してるだろうからな。下らん幽霊騒ぎも良い暇潰しになるだろ」
「……あ、そうだ。ファナさんも誘って良いですか?」
「今は療養中だしアイツにも因縁深い場所だし構わんが……。何でだ? 地理的な事か?」
「いや、反応が可愛いだろうから……」
「お前本当に撃たれても知らんぞ」
満面の笑みで本望ですと言い放つスズカゼ、もうこの馬鹿は駄目だと顔を覆うゼル。
変態と苦労人は互いに思いを馳せ、危険な笑いと疲労のため息を零していた。
因みにこの後、部屋に入ってきたメイドがゼルの机にそっと良い薫りの紅茶を置き、その懐かしき気遣いに彼が瞳を潤ませたのは別の話である。
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