獣は紅色の涙を流す
「……ははっ」
獣は嗤う。
眼前の少女に眼光を向け、牙を剥き。
嗤う。酷く悲しげで酷く物寂しげな、声で。
「解けちゃったんだ、魔法」
「んー、ちょっとした二日酔い気分かな。記憶がスッポリ抜け落ちてるんだけど」
「そうだよね。だってそういう風にしたんだもん」
獣は尾を振りながら微かに頭を垂れる。
潰れた片目から生々しく血が滴り、バルドの紅華を上書きしていく。
もし彼の身体が未だ転がっていたのならば、その頬をさらに真っ赤な血で染めていたことだろう。
血深泥の中、数多の本が散る中で彼女達は対峙しているのだ。
「……司書長ちゃんだよね、何で獣になってるか知らないけど」
「うん、そうだよ。スズカゼお姉ちゃん」
「片目、大丈夫?」
「痛くないかな。もう痛覚ないもん」
獣は自嘲するように片目の槍を抜き取った。
さらに生血が溢れ出し、紅華は完全に赤色の華となった。
然れど獣が叫ぶことはない。嗤うことも、最早ない。
獣にとって痛覚は既に忘れ去られていた。バルドによる臓物への一撃が完全に最後の鍵となったのだろう。
致死量の血液を吐き出してる事も、全身に悍ましいほどの傷を負っている事も。
獣にとって最早、関係無い。
「ねぇ、お姉ちゃん。遊んでよ」
「え?」
「もうね、私永くないの。見れば解ると思うけど数十分で死ぬと思う。……後悔は無いんだけど、やっぱりね、怖いから」
スズカゼにも色々と聞きたい事はあったはずだ。
どうしてこんな事をしたのか、何が目的だったのか。
貴方は何物なのか、自分は何物なのか。
全て聞きたくて、その為には刃を振るう事すら戸惑わないはずだった。
だが、この化け物の、この獣の、この少女の瞳を見た時。
その考えはもう、無かった。
「……どうやって遊ぶの?」
「頭を撫でて欲しいの。ぎゅっと抱き締めて欲しいの。色々お話して欲しいの。……けど、そんな時間もう無いから」
獣は牙を剥き、爪を地に食い込ませて。
大地を蹴り飛ばして剛鋭な牙を少女に向けた。
頭を撫でることも、ぎゅっと抱き締めることも、色々とお話することも。
そんな時間は無いから、ただ、最後に。
戯れて欲しくて。
「……フゥ」
一息ついた。
眼前の化け物の驚異は解る。
手を抜こう物なら、その抜いた手が吹っ飛ぶだろう。
いや、それだけなら良い。臓物すら喰い殺されるのは確実だ。
一閃すらもこの獣相手には命取りとなる。
ならば手は抜けまい。殺す気で、行くしかない。
「一閃、行くよ」
紅色の衣が尾を描き、紅蓮の刃が弧を描く。
襲い掛かる獣の剛鋭なる爪に対し、彼女の一閃は音すら持ち得ない。
空を潰す剛鋭なる爪、空を裂く一閃の刃。
双方の衝突は凄まじい轟音と火花を生み、地に軋轢を生む。
弾け飛ぶ瓦礫を皮膚に受けようと、彼女と獣が互いに視線を外すことはない。
続く第二の剛鋭なる爪を放つ為に、迎え撃つ為に。
「二閃目」
獣の連撃、少女の追撃。
轟音と爆音が鳴り響き、数多の本が吹雪の如く舞い散り、瓦礫が雨の如く降り注ぐ。
皮膚が裂け、血が舞い、肉が切れようと。
互いの視線を外さない。糸で結ばれたかのように、その糸を護るかのように。
幾多の斬撃を、幾多の衝撃を、幾多の轟撃を交わそうとも。
その糸だけは、決して千切らない。
「楽しいね」
「そう? 私はちょっと疲れるかな」
獣の咆吼は地を穿ち、紅蓮の焔は本を燃やす。
彼女達の衝突は書庫の全てを破壊し、紅蓮で覆い尽くすには充分な物だった。
然れど、破壊され始めているのは書庫だけにあらず。
スズカゼも、獣も。双方が尋常で無い傷を抱えているのだ。
直撃一発で命運を立たれるような、重傷を。
「ありがとね、お姉ちゃん。私の我が儘に付き合ってくれて」
「そこは気にしない! 私だって我が儘で生きてるような物だし」
爪が紅蓮の衣を擦り、少女の片腕に深い傷を付ける。
刃が剛鋭な牙を斬り、獣の口腔から血を噴き出させる。
双方の鮮血が待った刹那、その合間を縫うように魔術の砲撃が獣の腕に向けられた。
彼女達の戦いを見ていたファナが援護のために隙を見て放ったのである。
その効果は絶大であると言えよう。この緊迫した一面で片足を失うのは余りに痛い。
この一撃は勝負の決め手となり、全てに決着が着く。
ーーー……然れど、少女はそれを許さない。自らの戯れに誰かが介入することを許しはしない。
「邪魔をするな」
紅蓮の衣は魔術大砲を掻き消し、再び獣の爪を受ける。
背中に多大な傷を受け少女が激痛に酷く顔を歪めた。
然れど彼女が退くことはない。糸を絶つ事は無い。
己の全力を振り絞って、少女の願いに応えるために。
総力を振り絞り、詠唱すら破棄して。
その一撃をーーー……、放つ。
〔天陰・地陽ぉおおおおおおおおおッッッッ!!!〕
獣の脳天を穿ち、顎元まで奔り抜けて。
破壊の一撃は天地を穿ち、紅蓮を超えて白焔となりて。
全魔力を込めた一撃を、撃ち込んだ。
「私ね、この状態だと目が見えないの」
少女は、片目を潰し腹を裂かれ、全身から鮮血を流す少女は。
スズカゼの膝枕に身を任せながら、静かに呟いていた。
誰に向けるでもない、ただ一人の言葉を。
「だから世界が解らなくて。きっと眩しいって事しか知らなくて……地面はざらざらしてて、空は青くて、太陽は燦々と輝いてて……、きっと眩しくて」
スズカゼは彼女の小さな掌を握っていた。
最早、体温すらなく動くこともない小さな掌を。
「でも私はあの姿が嫌いだった。獣の姿が私の人生を、私の人生を否定しているようで嫌いだった」
少女の潰れた瞳からは涙が零れていた。
最早、光を望むことは出来ない瞳は。
静かに、静かに、沈んでいく。
「けれど最後に……、お姉ちゃんに出会えたから。私の人生は無駄じゃ無かったって、失敗作は無意味な命じゃなかったって、解ったから……」
口端を動かし、微かに上げて。
優しい微笑みは誰に向けられた物でもない。
光を失い、影すらも無くした少女の笑みは、誰に向けられた物でもない。
なのに、彼女の見えるはずもない瞳はスズカゼを見ていた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
触覚も。
嗅覚も聴覚も視覚も味覚も。
全てを失っているはずなのに、少女はスズカゼに囁いた。
その言葉は彼女の意識を途切れさせ、瞳を限界まで開かせて。
全ての意識を奪い去った。奪い去らざるを得なかった。
事切れた少女の為に、スズカゼは言葉一つ浮かばない。浮かぶはずがない。
その少女の言葉故に。
ーーー……第二次世界大戦はもう終わった?
その言葉、故に。
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